歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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五胡十六国時代前半の年表〈西晋崩壊以後、383年淝水の戦いまで〉

五胡十六国時代は、

383年の淝水の戦いの前後で時代が分かれる。

華北も江南東晋も、

淝水の戦いへとどう向かっていくのかという視点で、

見ていくとわかりやすい。

中華全体の視点から年表で辿りたい。

 

 

各国視点では見えない部分が見えてくるので非常に興味深い。

 

〈300年〜329年 西晋以後の情勢〉

 

・300年

西晋八王の乱勃発。

 

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・304年

蜀(四川省)において氐族により成漢が成立。

・311年

西晋、匈奴漢により滅亡させられる。

 

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・317年

江南に亡命していた西晋亡命者を主体として東晋成立。

 

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・318年

匈奴漢内紛。

 

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・319年

匈奴漢が分裂。

劉曜の趙と、石勒の趙に分かれる。

前者を前趙と呼び、関中の長安に本拠を置く。

後者を後趙と呼び、河北の襄国に本拠を置く。

 

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・324年

東晋、王敦の乱(322年〜)、鎮圧。

・328年

後趙石勒が洛陽決戦で前趙劉曜を捕獲。

 

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・329年

東晋、蘇浚の乱(327年〜)鎮圧。


石勒、前趙劉曜領を掌握。事実上の華北統一。

 

※華北も江南もそれぞれ内乱状態であったので、

南北の戦いが起こらなかった。

南北ともそれぞれの領域を完全確保しようと動く。

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〈329年〜347年 華北=後趙、江南=東晋、蜀=成漢の三国鼎立〉

 

・330年

後趙の石勒、皇帝になる。
・333年

後趙石勒崩御。

・334年

石虎、事実上の後趙の君主となる。天王。

 

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東晋陶侃の死去。庾亮、西府軍の掌握。

・338年

慕容皝の燕王僭称。

石虎と慕容皝は同盟し、鮮卑段部を壊滅させる。

・339年

石虎は慕容皝を攻めるも、撃退される。

この後東晋が慕容皝の燕王僭称を認める。

東晋庾亮の北伐を未然に察知した石虎は庾亮を攻撃。

機先を制する。

・339年

東晋丞相王導の死去。(大した実績がないので影響は少ない。)

慕容皝が高句麗を攻撃。城下の盟を誓わせ、傘下に収める。

これは慕容部にとって大きな意味を持つ。

背後を気にすることなく中華を狙える。

高句麗は後年の女真族の地にあり、馬の産地である。

この高句麗の確保により慕容部は攻勢に出ることができるようになった。

 

・340年

東晋庾亮死去。庾冰が後継者。

・342年

東晋三代皇帝成帝崩御。弟の康帝が後を継ぐ。

・343年

後趙石虎、前涼を攻撃するも失敗。

東晋庾翼、北伐。桓宣の敗北で失敗。

・344年

庾冰死去。東晋四代皇帝康帝崩御。子でまだ2歳の穆帝が後を継ぐ。

・345年

庾翼死去。桓温が西府軍を握る。

・347年

石虎、前涼の二度目の攻撃、失敗。

桓温、成漢に一万人の寡兵で電撃戦を仕掛け、攻略成功。

蜀と漢中を手に入れる。

 

※北の後趙、南の東晋ともにそれぞれ内部を固める。

攻勢に出て成功したのが、東晋の桓温であることがわかる。

蜀・漢中を確保したのは非常に大きい。

後趙の石虎は力はあるのに、外征は成功しなかった。

 

〈347年〜352年 華北=後趙、江南・蜀=東晋の南北対立、その後、後趙崩壊〉


・348年

後趙石虎の後継者、

石宣、石虎の廃嫡を恐れ反乱を起こすも失敗。族滅させられる。


・349年

後趙石虎崩御。後継者争いが起きる。

石虎の死に乗じて、

東晋皇帝穆帝の母方の祖父、つまり外戚の

褚裒(ちょほう)が北伐。

泗水方面に進駐、下邳(カヒ)、彭城(ホウジョウ)を確保。

しかし、この北伐は本格的なものではなく、

率いた軍卒の数は3万、4万程度であり、

石虎死後の混乱に乗じて、華北の一部を獲得しようとしたものであった。

その後、後趙の反攻を受け敗北。撤退する。


・350年

石虎の子の後継者争いのもつれにより、石閔が立つ。

石閔は後趙皇族の姓、石姓を捨て、元の漢人の姓、冉姓にする。

漢人として独立し、異民族を大量虐殺する。華北大混乱。

 

・351年

華北の大混乱からうまく逃げた、氐族の苻健が関中を確保し、自立。

前秦建国。天王を称す。元号は皇始なので、東晋を認めない形の独立である。

 

・352年

前燕の慕容恪が冉閔を滅ぼす。

前燕慕容儁は皇帝を称す。

 

同年、東晋は殷浩に北伐を実施させる。

羌族の首領で後趙の重鎮でもあった姚弋仲の帰属もあり、

黄河以南まで確保する。

姚弋仲は352年に死去。

殷浩は、姚弋仲の後を継いだ姚襄を抱えこめず、対立。

姚襄は結局離反し、失敗に終わる。

 

※東晋は、石虎崩御後の華北混乱という

大きなチャンスがあったにも関わらず、

華北の奪回までは辿り着けなかった。

しかし、黄河以南の、兗州・徐州・豫州の回復という成果は大きい。

東晋はこの後桓温の手により更に攻勢を強める。

 

華北は後趙が滅び、

東西にそれぞれ前秦、前燕が割拠。

現代の我々の印象だと、前秦の方が強いように感じられるが、

前秦は内乱が続き、外に攻勢に出られない。

前燕は慕容恪を中心にまとまり、攻勢に出る。

 

 

〈352年〜370年 中原=前燕、関中=前秦、江南・蜀=東晋の三国対立へ〉

 

東晋桓温の攻勢。それに対抗して前燕慕容恪の反攻。

最後は東晋桓温と前燕は亡き慕容恪の弟慕容垂の争いが、

前秦苻堅に漁夫の利を得させるという話である。

 

 

・354年

桓温、殷浩を弾劾し、免官させる。

 

・354年

桓温の第一次北伐。

東晋の桓温は、関中に割拠する前秦苻健を攻める。

桓温は長安郊外で大勝し、長安城を包囲するも、兵糧切れで撤退。

 

・356年

桓温の第二次北伐。

東晋の桓温は、今度は洛陽方面に進撃。

前燕に付属していた羌族の姚襄がちょうど後趙の旧将が

籠っている洛陽を包囲しているところであった。

桓温は姚襄を破り、洛陽に入城。

東晋は311年に匈奴の劉曜に洛陽を陥落させられてから、

45年ぶりに洛陽を奪還する。

 

・357年

前燕慕容儁、鄴へ遷都。

長年の本拠地から中原へと慕容部が遷都して来た意味は二つ。

東晋桓温への牽制と中華帝国となる決心である。

 

・360年

前燕皇帝慕容儁崩御。

後継皇帝慕容暐は10歳。

慕容儁の弟で慕容暐の叔父、慕容恪が輔弼に当たる。

 

・363年

東晋桓温、戊戌土断の実施。

永嘉の乱以来の華北からの流民を戸籍に入れ、

租税の増加を目指すものである。

北伐遂行のための資源を確保するためである。

 

・365年

前燕の慕容恪が攻撃して、

東晋から洛陽を奪い取る。

 

・367年

前燕の慕容恪死去。

 

・369年

桓温の第三次北伐

東晋桓温の戦略目標は前燕の都、鄴。

4月に進軍開始。

桓温は順調に進撃し黄河に達するも、

兵糧の供給が上手くいかず9月に撤退。(ロジスティックスの問題)

 

そこを前燕の慕容垂に襲われ、大敗する。桓温、生涯最初で最後の大敗。

 

・370年

前秦苻堅が前燕を滅ぼす。前秦が華北を統一。

 

話は369年から始まる。

桓温の第三次北伐に際して、前燕は鄴から遷都をするほど動揺。

その際に洛陽周辺の割譲を条件に前秦の救援を要請。

前秦はこれを受けたが、その前に前燕の慕容垂が東晋の桓温を

撃退する。

前秦は盟約違反を問い洛陽へ進駐しようとする。

 

前燕内部では、

宗族のトップ慕容評と、前年軍功を挙げた慕容垂が対立。

慕容評は前秦との講和を進めたかったが、

慕容垂は軍事部門のトップとして抗戦を主張。

まとまらず、慕容垂が369年12月に前秦に亡命。

桓温を撃退したのが9月なので、3ヶ月後のことである。

 

これにより、前秦は前燕に侵攻。

369年12月に前秦王猛が軍を率いて、

洛陽を奪う。

 

これ以降も前秦は前燕を侵略。

370年に前燕は滅亡する。

前燕の軍事部門のトップが裏切ってしまっては、

機密情報は筒抜けで、士気も上がるわけがない。

尚、後世悪評の高い慕容評だが、前秦苻堅に囚われるが、

どれだけ慕容垂が批判しても、助命する。

慕容評が前秦との講和を目指して調整をしていたことを知っていたからだ。

 

※桓温、華北回復まであと一歩まで迫るも、

前燕慕容垂の前に敗れる。

前燕は慕容部時代から続く伝統の身内争いで、

慕容垂が前秦に亡命という事件が起きる。

前秦は慕容垂の亡命をきっかけに前燕を侵略、

華北を統一する。

 

〈370年〜376年 華北=前秦、江南・蜀=東晋の南北対立〉

 

 

・371年

東晋桓温、皇帝を廃替。会稽王司馬昱を皇帝とする。(簡文帝)

同年4月前秦は前仇池を滅ぼす。

・372年

東晋簡文帝崩御。

・373年

8月東晋桓温死去。

同年9月前秦は東晋の蜀方面を攻撃、漢中と蜀を奪う。

 

〈華北・蜀=前秦、江南=東晋の南北対立〉

 

・375年

東晋謝安、実権を掌握。

桓温を継いだ末弟桓沖は上手く謝安と妥協し、

平和に荊州へ去る。

同年前秦丞相王猛死去。

 

・376年

8月前秦、河西回廊(現在の甘粛省)の前涼を滅ぼす。

同年12月、前秦は代の鮮卑拓跋氏を滅ぼす。 

 

前秦は華北の周辺領域も確保。華北周辺の敵対勢力は全て屈服させた。

 

※桓温は、華北統一あと一歩まで迫りながら、

前燕に敗北。

それどころか、桓温の北伐が前燕内部の対立を煽り、

それにより前秦に華北統一を許してしまい、

漁夫の利を得させてしまう。

 

このまま手をこまねいていては、東晋が劣勢になるのは

明らかである。

桓温は再度北伐を速やかに行えるよう、

体制を作ろうとする。

だが桓温の希望は叶えられることなく死去する。

この後、前秦は大攻勢に出る。

 

〈376年〜383年 華北完全統一=前秦、江南のみ=東晋。前秦圧倒的攻勢へ〉

 

 

378年から、前秦苻堅が東晋の荊州方面を中心に攻撃し始める。

・378年

2月に前秦苻丕は東晋攻略を開始。

この遠征に鮮卑の慕容垂、羌族の姚萇も参加。

・379年

2月に東晋から襄陽を奪う。

そのまま東進し、淮南の盱眙(くい)を攻略。

さらに、南下し広陵にまで迫った。

広陵は長江北岸の都市で、

東晋帝都建康から見ると、長江対岸の重要都市である。

謝玄の奮戦で、前秦勢を撤退させる。

前秦は淮水までのラインを確保した。

 

・383年

5月 前秦の本格的な東晋攻撃を察知した

桓沖が機先を制して、襄陽を攻撃。前秦はこれを防ぐも、

荊州への攻撃はこれでなくなった。

同年11月淝水の戦い

前秦苻堅、東晋に大敗。

 

※華北完全統一および蜀・漢中を確保した前秦。

これは西晋司馬炎が呉を討伐する前の勢力圏と同じである。

全身に何の問題もなければ、

東晋を攻略するのは時間の問題であった。

しかしながら、

前秦は建国以来統治能力に疑問符が付く部分があるのと、

他族をそのまま包含してしまったことが原因となり、

淝水の戦いを契機に崩壊する。