歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

冉閔、理由ある暴走

349年病で焦り、

最晩年に石虎は皇帝につく。

しかし数か月で同年石虎は崩御する。

 

後継者は10歳の石世。

石虎の末子であったが、

さすがにこれは無理があった。

なお、石世の母は劉氏で、その父は前趙の劉曜である。

つまり石世は劉曜の孫である。

 

石虎の子が相争う、異民族にありがちな後継者争いへと発展する。

 

●石世←石遵、石遵←石鑑、石鑑←石閔がそれぞれ殺害。

 

10歳の末子石世(セキセイ)が後を継ぐが、

即位一か月ほどで、

兄の石遵(セキジュン)に殺される。349年のことで、

石虎崩御と同年である。

その石遵も、弟の石鑑(セキカン)に殺される。

兄弟で殺し合った。

 

この石鑑は、石虎の養子の子、すなわち

養孫の石閔(セキビン。のちの冉閔(ゼンビン))に殺される。

 

 

●漢族を裏切った石閔、今度は後趙石氏に裏切られる。

 

 

石閔は、

漢族なのに石虎の養孫として

良い待遇を受けてきた。

 

石閔は元々漢族だった。

乞活集団に属していた。

しかし父石瞻が石虎の養子になったことで、

漢族なのに異民族の立場になる。

 

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 ※「乞活とは?」に記述がある。

 

養子と言えど、石虎の一門である。

当然富貴の身となる。

 

石勒以来の胡漢融合政策により、

表立った批判はなかっただろうが、

漢族の中には異民族への差別、蔑視というのは

消え去っていない。

石閔は漢人のくせに、

異民族に寝返り、良い思いをしてきた。

漢人の嫌われ者だった。

 

しかし、石虎後の内紛で、

石閔は石虎の子石遵と仲違いをした。

 

石閔は石遵の後継者争いを支援したが、

その見返りは石閔を皇太子とすることだった。

しかし石遵はこの約束を履行せず、

石閔は怒り、石遵を殺す。

石閔は、石鑑を擁立するも、

やはり石閔を排除しようとする。

石閔は石鑑を殺す。

 

石閔は後趙石氏に二度も裏切られた。

 

本来、何の血の繋がりもない石閔を

後継者にするという約束自体に無理がある。

石閔、冉閔の立場になって考えると、

確かに劉曜や石虎は前皇帝の血筋ではないが、

後を継いだ。

ただそれは血族としての繋がりはあったわけで、

石閔、冉閔のようにただの養孫とは異なる。

 

この約束が本当にあったのかどうかすら疑わしいが、

いずれにせよ、

石閔は、後趙石氏に裏切られたのである。

 

漢人を裏切って、

後ろ指を刺されて来た石閔はここに来て、

異民族に切られたのである。

石閔は、身内だと思っていた後趙石氏に、

切られたことは相当に衝撃であった。

純粋に自分を石氏の一人と思っていたとしても、

石氏であることを打算的に維持しようとしていたとしても、

である。

 

こうなったら

石閔は漢族に支援を求めるしかない。

しかし、石閔は漢族に嫌われている。

 

 

●石閔、冉閔へと改名、魏を建国。そして異民族の大量虐殺。

 

 

石閔は冉閔(ゼンビン)に名乗りを変える。

かつての父の姓を名乗った。

 

350年2月、冉閔は

鄴で魏を建国、天王になる。

後世、冉魏(ゼンギ)と呼ばれる国家である。

漢人至上主義を標榜。

 

そして、

石閔は漢族からの支援、支持を得るために、

異民族の大虐殺を始めた。

 

それぐらいしか、石閔が漢人に鞍替えしたという

身の潔白を立証する方法がないのである。

 

20万人もの異民族を殺害したとされる。

また外見のみで異民族に似ているとされた漢族も、

殺害された。

 

冉閔の、異民族後趙石氏に裏切られたことによる、

ある種のヒステリックな行為とするか。

それとも、漢族の支援を得るために必死になって考えた策の実行とするか。

私は両方と考える。

 

冉閔にはこれしか方法はなかった。

漢族の嫌われ者が異民族に裏切られ、

再度漢族の信用を得るには、異民族を大量虐殺するしかない。


冉閔は、異民族を徹底的に排撃しているという

スタンスが明示されれば何でもよかったのだ。

 

これにより、石勒以来約30年に渡る、

胡漢融合は破綻。

 

華北に移住してきた異民族は、

自分の身は自分で守る他なく、

故郷に帰ろうと行動を起こした。

 

これにより華北は大混乱に陥る。

 

後趙は徙民(シミン)と呼ばれる、

強制移住政策のため、

本来は漢人の居住地であった華北エリアに

異民族がそれぞれ移民していた。

 

例えば羌族は黄河北岸の清河郡に移住をしていた。

石閔の漢人至上主義では、

そこにいることができず、羌族は故郷の関中に戻ろうとするほかない。

 

しかし、大混乱なので戻れず、

故郷帰還のための

激しい戦いが繰り広げられる。

 

●冉閔は後趙を完全滅亡に追い込む。

 

 

一方、石虎の子、石祗(セキシ)は、

冉閔に対抗して

元の後趙の都、襄国で皇帝に即位する。

350年3月のことである。

前月に冉閔が魏を建国しているので、

ここに後趙は分裂した。

 

石虎以来の重臣、姚弋仲(ヨウヨクチュウ)に支援を求める。

右丞相に任じていた。

 

姚弋仲は長らく石虎を支えてきた羌族の部族長である。

石虎が劉曜亡き後の関中攻略の際に服属させた。

 

姚弋仲は黄河北岸の清河郡というところに

羌族8万人とも言われる人数を率いて居住していた。

だが、冉閔が漢族至上主義を標榜した今、

清河郡のマジョリティを占める漢族の支援は期待できない。

 

平たく言えば、食糧がないのである。

明日食べる物にも困る状況なので、

いくら羌族が勇猛であっても戦えない。

 

その上、姚弋仲は70歳を既に過ぎており、

当時病に臥せっていた。

石祗のために戦うことができなかった。

姚弋仲はどうも350年の前半には

病で戦陣に臨めなかったようである。

 

そこで、姚弋仲は息子の姚襄(ヨウジョウ)に委任をする。

明けて351年冉閔は石祗の籠る襄国を包囲。

 

石祗は皇帝から王に位を下げ、前燕の慕容部に援軍を求める。

前燕から援軍が到着し、

姚襄に合流。冉閔を攻撃し、

万を超える損害を与える。

代わりに冉閔と戦い、大勝。351年2月のことである。

 

しかし、

石祗は最後は配下の劉顕に殺され、

351年4月に後趙は正式に滅亡する。

翌5月に冉閔は襄国に侵攻し、襄国を押さえた。

 

●前燕、東晋に攻められ四面楚歌の冉閔、前燕の慕容恪に敗れ滅亡する。

 

 

冉閔は後趙を滅ぼしたものの、

他エリアでは劣勢であった。 

黄河南岸の河南エリアは

次々と東晋に帰順する。

 

冉閔は漢人の国家を標榜しながらも、

天王であったので

東晋と共存できないイデオロギーであった。

 

羌族の姚襄も東晋の攻勢を見て352年11月に帰順。

東晋の殷浩が北伐をしてきたからであった。

この時、姚弋仲は異民族は皇帝になれない、

と言って東晋に服属しろと姚襄に言ったされるが、

これも後年のリードストーリーに過ぎない。

 

このようにジリ貧の状況の中、

前燕慕容部の慕容恪(ボヨウカク)が冉閔を攻撃。

352年4月、中山郡(現在の石家庄市の北東)にて両軍対峙。

冉閔は初戦優勢であるが、慕容恪が策を巡らし、

冉閔を捕獲する大勝をする。

冉閔を前燕の王都龍城に送り、そこで処刑。

 

352年8月には前燕の慕容評が鄴を陥落させ、

冉魏は滅びる。