歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

東晋の北伐① 遅々として進まない中、祖逖が自力で敢行

パッとしない東晋の歴史。

 

その中で唯一輝かしさをもたらすのが、

桓温、そして北伐である。

 

しかし、東晋の北伐は桓温に至るまでにも実はある。

これは東晋の歴史がパッとしないことにも繋がるのだが、

後世力を持った者たちがこういった

事績を隠してしまうからつまらないのである。

 

桓温の北伐は三回である。

桓温の同時代の人物は、

慕容恪、苻堅である。

慕容恪は歴史的名将、

苻堅は華北制覇を成し遂げた君主、

これらと戦う桓温も当然、非凡である。

この時代は実は面白いのである。

 

その一つ前の時代が西晋末東晋初である。

活躍する人物は、

石勒、劉曜、司馬睿、王敦、王導である。

 

●東晋は西晋の亡命政権。だから華北を取り返したい。

 

東晋は本来は北伐が国是になるはずである。

なぜなら、

東晋は北から逃亡してきた亡命政権だからである。

西晋は八王の乱で疲弊した。

狭義の八王の乱は、300年から306年一杯までだ。

 

しかし、

広義で見ると、

賈后が政権を取った291年から

八王の乱は事実上始まっている。

 

そして、

八王の乱の構図をそのまま引き継ぎ、

西晋の懐帝が最高権力者司馬越と対立。

この対立がもつれにもつれて、

311年6月に匈奴が西晋の帝都洛陽を陥落させる。

 

この匈奴の攻撃が始まる308年から311年までは、

永嘉の乱と呼ぶ。

 

これら言葉の定義は、

史実の理解とは異なる。

八王の乱と永嘉の乱の使い方が、

ややこしいので言及した。

 

平たく言うと、

西晋の武帝司馬炎は、280年に中華を統一したが、

その司馬炎が290年に崩御すると、内乱が起きる。

それは、西晋皇帝を支えるべき、司馬氏一門の権力争いであり、

これが311年まで続く。

最後は、西晋から離反した異民族の匈奴により、

西晋は滅亡させられる、と言うわけである。

 

この西晋の残党が、

長江の南部、いわゆる江南と言われる場所で、

亡命政権を作った。

この亡命政権を東晋と呼ぶ。

東晋は、その成立の由来から、

北伐が国是となるはずだった。

華北を乗っ取って、自分たちを追い出した

異民族たちに復讐し、

自分たちの故郷を取り戻したい、

そう思うのが自然である。

しかし、

そう簡単にはいかなかったのが、
東晋の歴史である。

 

●北伐の遂行がスムーズに行かなかった理由。

 

理由が二つある。


一つ目は、そもそも西晋自体が、
各名族(のちに貴族になる)の権限を認めた王朝であり、
それぞれ氏族が
それぞれの判断で独自に動いてしまう。

分権志向のためまとまりに欠ける。

 

これが八王の乱の原因の一つでもある。

本来、皇帝の存在自体が、中央集権を宿命づけられているはずが、
西晋の皇帝はそうならなかったのである。

軍事行動に限って言えば、
他国を攻めるにも兵を集めるのに苦労するわけである。

これは国を運営するサイドとしては非常に大変なわけである。

二つ目は、

この亡命政権を作った江南の地に、

西晋司馬氏は何の地盤もなかったことだ。

 

地盤がないどころか、

ここ江南は、

西晋が呉という国を滅ぼして

併合した土地である。

西晋としては、亡国の地として差別していた部分がある。

その地に政権を作るのである。

 

西晋司馬氏をはじめ、華北で勢威を誇っていた

各名族がその江南の地に来ても、

元と同じ権力を振るおうとする。

 

当然地元の江南の人たちと折り合いがつくわけがない。

 

これで内乱が続き、

北伐を実行するのが二の次にされてしまった。

 

この経緯から東晋の歴史は始まる。

 

なお、表立っては出てこない部分だが、

華北と江南は文化面でも大きく異なることを付記したい。

文化面での違いとしてわかりやすい事例は、

食文化が大きく異なるということだ。

華北は麦食、

江南は米食であるということだ。

下記地図を見てほしい。

f:id:kazutom925:20171023080103j:image

「吉川弘文館 世界史年表・地図」から引用。

 

江南の食文化は比較的日本に近い。

華北では、米を頻繁に食べることはない。

 

これだけでも大きな違いである。

異国なのである。


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●祖逖の北伐

 

307年から後の東晋政権につながる形ができつつあったが、

上記のような事情で、

一つにまとまるには困難が伴った。

 

北伐への意識よりも、

内部をまとめることに意識が向く。

 

そうした中で北伐を遂行しようとしたのが、

祖逖である。

 

313年に北伐を実行する。

司馬睿から豫州刺史に任じられていたので、

国家からの承認は得てはいたものの、

物資の支援はなかった。

やるのなら、自分でやってくれ、である。

 

それでもやった祖逖は、

私財を投入しての北伐だった。

事実上の義勇軍である。

 

 

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祖逖の行為は東晋の歴史に大きな影響をもたらした。

上記も参考にしてほしい。 

 

しかし、義勇軍なだけであって

祖逖の軍は士気が高く、

豫州を含め、黄河以南までを回復する。

 

石勒は、石虎を派遣して祖逖を攻撃する。

だが、祖逖は猛将石虎さえも、撃退する。

 

石勒も一目置く祖逖であった。

 

しかし、

皇帝となった元帝司馬睿と王敦の争いが激化。

その対抗のために司馬睿が祖逖の持つ軍権を取り上げ、

その祖逖の動きは鈍化。

東晋の将来を悲観したまま祖逖は321年に世を去る。

祖逖の後は弟の祖約が後を継ぐが、

石勒の攻撃を受け、寿春まで撤退させられる。

 

この経緯だと、見方によっては王敦が祖逖の

足を引っ張ったようにも見える。

 

しかし、王敦は江南の揚州、荊州の足場固めに、

注力しただけである。

 

むしろ、王敦も祖逖と同じく、

司馬睿に足を引っ張られたと言った方が正しい。

 

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