歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

東晋北伐② 庾亮の北伐計画、実行できず

 

北伐を敢行した祖逖が失意のうちに死去。

その後東晋は王敦の乱、蘇峻の乱と内乱が続く。

いずれも、軍功のあった者が反乱を起こすところが

ポイントだ。

 

両者とも東晋に忠を尽くしているのに、

裏切られたと感じた。

それが反乱を決意させた原因である。

 

これら内乱が鎮圧され、

政権を取ったのが外戚の庾亮である。

彼は真面目な人間でもあったようで、

東晋の本来の国是、北伐を忠実に遂行しようとした。

 

●庾亮は北伐を実行して名誉挽回を図りたい。

 

庾亮は北伐をしたかったが

果たせなかった。

これが結論である。

 

元帝司馬睿の崩御後、

曲がりなりにも東晋をまとめたのは

庾亮である。

 

王敦の乱の鎮圧、

義弟明帝の早逝、

中央集権を急ぎ過ぎた結果の蘇浚の乱、

その鎮圧と、

数々の困難が有りながらも、

東晋を形にしたのは庾亮だった。

 

しかしながら、

蘇峻の乱を引き起こしてしまったのは、

庾亮である。

著しく名声を落としていた。

庾亮が名誉挽回を図りたいと思うのは当然である。

 

329年に蘇峻の乱を鎮圧するが、

庾亮は中央から離れる。

豫州刺史として、

蕪湖にて駐屯する。

江南から華北に至る道は様々あるが、

ここは前線の一つである。

 

蕪湖は、寿春から東南方面へ行くと、

合肥を出て長江に達する。

三国時代の魏と呉の戦いは、

このルートをメインに行われた。

庾亮は前線に赴いたのである。

 

また、少しややこしい話だが、

僑州としての豫州がここにある。

僑州とは華北から逃れてきた流民の疎開地である。

寿春の先が豫州であり、そのためにここにおかれた。

 

●北伐をしたい庾亮、石勒死後の絶好のチャンスを逃す。

 

333年頃、

庾亮は当時輿論の評判の的であった桓温に、

明帝の子で、庾亮にとっては姪に当たる

南康長公主を娶せている。

思いっきりのいい桓温を取り込むことで、

庾亮は輿論の掌握にも腐心している。

 

334年、

西府軍を握っていた陶侃(トウカン)が死去する。

これを庾亮自ら後継する。

都督六州諸軍事として荊州の武昌へ出鎮(駐屯)。

北伐を本格的に計画する。

 

当時は333年に華北の後趙皇帝石勒が崩御。

後継は石勒の嫡子石弘が継ぐも、

後趙建国の元勲中山王石虎が皇位を窺い、

華北は不安定な状況にあった。

 

東晋にとっては絶好のチャンスであった。

 

しかしながら、庾亮は北伐の軍を起こさなかった。

起こす能力もなかったと私は考える。

 

逆に動きとして見えるのは、

北府軍を握る郗鑒(チカン)と連絡を取って、

王導の排除をしたいという連絡ぐらいである。

 

庾亮は

北伐を強引にでも敢行するほどの決意は持てなかった。

また、

北伐に反対していた王導と

意見調整もできなかった。

 

庾亮は当然文官であり、戦いに強いわけではない。

北伐をするにしても、

緩々と屯田をしながら着実に領域を増やそうとしていた人物である。

拙速で勝った戦いはあれど、拙遅で勝った試しは

古今東西の歴史上ありえない。

庾亮には軍事の才能がなかった。

 

しかしそれでも北伐をやろうとしていたのは

事実である。

 

また、庾亮のこの時点での

政治命題は北伐である。

上記の王導の排除は、

北伐遂行のためである。

排除せず敢行もできなかったのは、

庾亮が軍事に自信がなかったこと、

蘇峻の乱の失敗が尾を引いているからである。

結局のところ、

王導排除について北府軍を握る郗鑒(チカン)には断られ、

そうこうしている間に、

北伐絶好のタイミングは失われた。

華北では石虎が後趙を掌握してしまったのである。

 

●庾亮いよいよ北伐かという時に石虎に叩かれる。

 

それでも、

庾亮は北伐を計画し、実行のタイミングを

窺っていた。

 

それが石虎に察知され、

石閔(のちの冉閔)が荊州を攻撃してくる。

北伐の実行を潰すためである。

余程わかりやすく、庾亮は北伐計画を進めていたのだろう。

これは339年のことである。

武昌郡の邾城まで攻め込まれるという屈辱を

庾亮は味わった。
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※中国歴史地図集から引用。

 

邾城は荊州は相当に奥まった場所にある。

そこまで来ているにも関わらず、

途中の

荊州エリアは占領はされなかったようなので、

石閔の攻撃は、

軽騎兵による先制攻撃だった。

庾亮の北伐計画を破壊するものだった。


この後王導が死去するので、

王導が病に伏したから、

ようやく庾亮はいよいよ北伐を実行しようとしていたのである。

しかし石虎はそれを把握していたから、

庾亮の動きをすぐに察知して、

石閔をやって庾亮を叩いたというわけであった。

つくづぐ庾亮は軍事に向いていなかった。

失意の庾亮は、340年に死去。

庾亮は北伐を果たせなかった。


その北伐への思いは、

弟たちに引き継がれた。