歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

刊溝=呉王夫差が作った軍事施設としての運河=

刊溝。

 

これは運河である。

 

江南の歴史を語る際に重要な運河である。

 

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 引用元:中国歴史地図集

●刊溝はどこにあるか。

 

どこにあるか。

長江から南北に淮水を繋いでいる。

 

●刊溝はいつ作られたか。

 

いつ作ったのか。

春秋時代後期の呉王夫差が、

前486年〜前484年の間に、作ったとされる。

運河を作ることを開鑿(カイサク)と呼ぶ。

前486年説が有力である。

 

 

当時は鉄器が普及しつつあり、

耕作や戦争のあり方が大きく変わっていく最中であった。

青銅器では、大して土は掘れないが、

鉄であれば野をより耕すことができる。

 

深く掘って巨大な水路を作る必要がある

運河の開鑿も、鉄器の発明、普及があってこそである。

当時の最新鋭の文明の産物が運河である。

 

●刊溝を作った呉王夫差の目的

 

目的は何か。

中原への進出である。

 

父呉王闔閭を継いだ呉王夫差は、

越王勾践を屈服させ、絶頂期にあった。

 

これまでもたびたび中原方面へは出兵をしていたが、

邗溝を作ることで、

出兵のスピードを早めることに成功していた。

 

邗溝を使って中原へ出兵した呉王夫差は、

前482年に、黄池の会を開く。

当然盟主に就きたい呉王夫差であったが、

 

盟主の座を晋の正卿趙鞅(ちょうおう)と争い、

その間に本国呉を越王勾践に攻め込まれ、

呉王夫差は江南に帰るほかなくなるという話である。

 

歴史ある運河の一つがこの邗溝である。

 

邗溝は、

あまり歴史の表舞台には出てこないが、

それはいつからか当たり前の存在になってしまったからである。

 

それほどに重要な存在であった。

 

●何がそんなに良いのか。

 

呉王夫差の時代で考えると、

長江と淮水間の移動がスムーズになる効果がある。

 

長江南岸側から見ると、

北に行くにはまずは長江を渡らなくてはいけない。

 

長江下流域において、

川幅4キロもある大河なので

橋はこの時代にかけることはできない。

 

船を使う。

 

それで長江北岸へたどり着き、

今度は陸に荷揚げをしなくてはならない。

これも結構手間のかかる作業である。

 

その後、陸地を北進。

しかしこのあたりは湿地帯が多く、

天候に左右されやすい。

 

人馬の移動に支障も出やすい。

さらに支障が出やすいどころか、

江南は馬を産出できない。

 

馬が貴重な資源であり、

潤沢に使えるほどに馬がない。

輸入に頼るほかないからである。

 

これを解決するのが、

運河邗溝の開鑿であった。

 

邗溝があれば、

長江南岸を出発すれば、

北岸での荷揚げが必要がない。

そのまま邗溝に入り、

淮水にたどり着くことができる。

 

ここから、淮水沿いに遡るもよし、

泗水沿いに遡るもよし、

様々な選択肢が取れる。

 

 

 

 

●越王勾践も邗溝を活用する。

 

上記経緯の後、

越王勾践は呉王夫差を滅ぼす。

 

越王勾践は江南の覇者となり、

呉王夫差と同じく、

中原方面へと侵略する。

 

山東省の斉と国境を接することになるが、

これは邗溝の効果である。

 

越王勾践も会盟を開き、

中原の覇者となる。

 

邗溝の活用で進軍スピードがアップしたことがもたらした

成果である。

 

●呉楚七国の乱で前漢の呉王劉濞が邗溝を活用。

 

時は下って、

前漢前期。

 

前漢高祖劉邦の甥、

呉王劉濞がこの邗溝を開鑿したという

史実がある。

 

《宋史》卷九十六‧志第四十九‧河渠六:

「春秋時,吳穿邗溝,東北通射陽湖,西北至末口。

漢吳王濞開邗溝,通運海陵。隋開邗溝,自山陽至揚子入江。」

 

 

運河というのは元々が川ではないので、

土が溜まる。

土が溜まると、

浚渫、つまり土をさらってあげなくてはならない。

そうしないと、いつかは土が溜まって、運河が

使えなくなってしまうのだ。

 
土砂が川底に堆積すると、

船が使えなくなる。

そのため定期的なメンテナンスが必要である。

具体的には、川底の土砂をさらう。

浚渫という。

 

これを行うには、

この運河を治める領域国家が平和で安定している必要がある。

戦乱が起きては、

このような工事はできない。

統一国家でなければ、

このような運河は基本的に軍事用であり、

格好の戦略目標になる。

 

そのような背景があり、

この刊溝は歴史の表舞台に出て来ないのである。

使ったり使わなかったりである。

 

劉邦の甥呉王劉濞は、来たる反乱の為に修築した。

前154年の呉楚七国の乱である。

中原への出兵をスムーズにするために運河刊溝を直したのである。


直したということは、

刊溝を使うに不都合があったと言える。

これは定期的なメンテナンスが必要なのである。

 

●後漢末から三国時代の刊溝 孫権も使う。


後漢でも使われていた。

しかし、後漢末期の戦乱で

再度刊溝は荒れてしまった。

 

江南は孫権が割拠。

華北は群雄割拠を勝ち抜いた曹操が支配。

淮水エリアを挟んで、曹操・孫権が対峙することになる。

 

この情勢の変化を受けて、

刊溝の在り方が変わる。

 

その理由は二つある。

 

一つ目の理由は、

曹操の領域から見ると、

寿春から南に下ったほうが近い。

 

そのため、

より近い寿春から南下して合肥を経由して

長江に至る道が、

戦いの中心となる。

 

合肥は、

寿春と長江のちょうど真ん中にある。

曹操は合肥を押さえていた。

 

曹操、孫権は互いの領域に攻め入るためには、

この合肥を押さえる必要がある為、

合肥の争奪を目的に、何度も戦うことになる。

 

二つめは、

国防の観点である。

 

呉の孫権側としては、

刊溝を不通にすることで

国境線とすることができる。

 

曹操および魏に対して優勢であれば、

刊溝を修築して、

北へ積極的に攻めることになるが。

それをするほど優勢ではなかった。

 

ということで、刊溝は荒れたままとなる。

 

しかし、こちらの旧ルートも、

メインではないが、たまに使われている。

例えば、孫権から仕掛けた、

241年芍陂の役(しゃくひのえき)では、

荊州ルート、合肥・寿春ルート、

そしてこの刊溝ルートの

三つを使って大規模に攻めている。

 

孫権自身が刊溝ルートを使って、

徐州を攻めている。

皇帝孫権のルートなので大規模である。

刊溝も修築して使った。

 

 

 

●西晋時代の刊溝は平和利用。

 


西晋の時代に入り、

280年に司馬炎は呉を滅ぼし、中華を統一する。

 

この時のルートは長江を下るルートと寿春・合肥ルートであった。

 

西晋時代の、

刊溝がどうなったかの記述は私には見つけられなかった

 

中華統一王朝が成立して安定すれば、

このルートは大変便利なので、整備されるはずではある。

 

それがわかる背景がある。

西晋のバブル経済だ。

 

石崇や王粛の贅沢争いに象徴される西晋のバブル的風潮は、

呉の統一が要因である。

 

西晋と呉の交易が進むことで、

バブル経済となった。

●●●西晋と呉

 

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刊溝も当然整備されたはずである。

 

●東晋では庾翼も桓温も北伐で使った。

 


その後、

八王の乱が勃発。

乱の終焉後、

司馬睿らが江南に来訪。

永嘉の乱で、西晋が滅亡。

東晋が江南に割拠。

再度、

長江―淮水間が国境線となる。

しかし、西晋時代に刊溝は整備されているので、

ここの線は残る。

但し、この後に東晋を攻めてくるのは

石勒である。

 

異民族の石勒は、

陸地を選ぶので、寿春・合肥線が狙われた。

 

この時点では、

刊溝は軍事上で活用されることはまだない。

いよいよ、これが使われるのが、

343年庾翼の北伐である。

 

荊州ルートと刊溝ルートをこの時に使った。


この後、

桓温も北伐に刊溝を

活用する。

 

桓温の第三次北伐では、

この刊溝ルートを使って、黄河北岸まで

一気に達した。

 

 

●建康から洛陽までを繋ぐ刊溝 その道のり

 

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建康を出て長江を東に下る。

長江北岸から運河の入口がある。

これが刊溝である。

刊溝に入ってすぐ北に広陵が見える。

広陵を巻くように刊溝は北東へ進む。

広陵を西に見るあたりから、

刊溝は真っ直ぐ北へと進路を変える。

 

高郵、安宜を越え、北東へ進路を変える。

斜陽湖に入りその後再度

北西へと進路を戻し、

山陽へと辿り着く。

ここまでざっと140キロ程度の距離である。

 

この山陽の北に流れるのが、

淮水である。

 

この淮水を少し西にさかのぼると、

淮陰に辿り着く。

淮陰で泗水が淮水に合流する。

 

ここ淮陰は、

あの前漢の名将、韓信の故郷である。

最後は淮陰侯に格下げされ誅殺されている。

 

ここ淮陰をさらに淮水沿いにさかのぼると、

盱眙(クイ)である。

 

淮陰から泗水に入り、北西にさかのぼる。

100キロ程度行くと、今度は泗水に沂水(キンスイ)が合流する地点に、

下邳(カヒ)がある。

 

西晋の時代にはこのエリア、徐州の都督が駐屯する

都市である。

下邳は、南に江南、北に古の斉、青州、今の山東省、

西には河南に行くことのできる交通の要衝である。

 

ここから沂水沿いに北に行けば、

郯、すなわち東海国の首府である。

東海王司馬越の本拠である。

さらに北が瑯琊国である。

ここは東晋の初代皇帝元帝司馬睿の封地であった。

 

下邳に戻って、さらに泗水沿いに

50キロ程度西にさかのぼると、

あるのが、彭城(ホウジョウ)である。

今の徐州市である。

項羽も本拠を置いた都市である。

 

 

ここに西からこの泗水に合流しているのが、汴水である。

汴は開封の古名であるのでそのまま西に行けば、

大梁、いまの開封に辿り着く。

 

ここまで来れば、

さらに西は洛陽ということで畿内に入れるというわけである。

 

彭城から北へさらに泗水沿いに行くと、

魯の曲阜方面へと行ける。

 

このような各重要都市に江南からアクセスするには、

長江から淮水を繋ぐ、この刊溝がどれだけ

有用かがわかってもらえると思う。

 

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しかしながら、北伐が完遂されることはなかった。

 

●隋は刊溝を使って陳を滅ぼした後、大運河の一部とする。

 

 

時代は下って、

南朝は陳の末期。

 

北朝は既に隋に代わり、

文帝楊堅は陳を滅ぼそうと決意する。

 

陳討伐軍の総司令官はのちの煬帝、

晋王楊広である。

 

さまざまなルートを使って、

陳を侵略したが、

この刊溝ルートも使われた。

 

刊溝経由で、

広陵へと進駐、

その後隠密裏に長江を南に渡河できたのが、

陳国を討滅するのに功を奏したのである。

 

東晋の歴史では、北府軍が初めに本拠を置いたところが

広陵である。

北への出兵の基地となっている。

これが逆に陳を滅ぼす際の決定的ルートなった。

 

長江北岸側にあって、

刊溝の始発、終着地点にある都市が、
広陵である。

 

これが、

後の江都、今の揚州市である。

煬帝が頻繁に滞在した都市として知られている。

皇帝煬帝が長江を渡るわけにはいかない。

渡ると、北で事変が起きたときに帰還するのが困難になる。

なので、江南を好んだ煬帝と言えど、

ここ止まりであった。

 

陳国滅亡し、

中華統一を達成した隋の楊堅は、

南北の連携を強化するために運河事業を推進する。

既に584年から運河事業は始まっていたが、

この刊溝は南北の大動脈として活用される。

 

名前を山陽瀆(さんようとく)と改め、

今も京杭大運河の一部となる。

 

この改名で刊溝の名前は消えてしまったのである。

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