歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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東晋北伐③ 庾翼の北伐と巴の獲得。

 

東晋が国家単位で北伐を初めて実施したのが、

庾翼(ユヨク)である。

庾亮の弟である。

 

東晋建国26年後にして、

東晋としての初めての北伐である。

 

 

●庾亮の悲願東晋北伐を343年に実現する庾翼とは。

 

 

343年7月に開始。

庾翼は、庾亮の弟。

桓温から見て、義理の叔父である。

 

庾翼は兄庾亮の340年の死後、

同年に荊州の軍権を引き継ぎ、

荊州の武昌に駐屯(出鎮)していた。

 

庾翼は305年の生まれで340年当時35歳。

兄庾亮は16歳年上で

現代の感覚では大分年の離れた兄弟である。

 

庾翼はまだ若年のため実績もなく、

庾翼の才覚を疑問視する声も多かった。

35歳を若年とするかどうかは時代の世相が反映する。

この東晋期においては、若造だった。

 

貴族名族が力を握る門閥政治の東晋は、

社会の安定性を重視する。

それが行き過ぎると硬直化し、

後から見ると滑稽で面白みのかけらもないので、

批判の対象となる。

 

その一つが年功序列である。

 

庾翼は庾亮の弟であるに過ぎず、

ただの若造だった。

 

しかしその声を裏切りが如く荊州に善政を引き、

成果を挙げる。

 

兄に勝るとも劣らない庾翼。

庾翼は義理の甥の桓温と

頻繁に交流していた。

天下平定の志を共に語り合った。

 

庾翼は時の東晋皇帝成帝、

つまり庾翼の実の甥にも、

桓温を勧めている。

 

桓温には英傑の才覚がある。

西周の宣王を補佐した名臣になぞらえて、

庾翼は桓温を絶賛している。

 

西周の宣王とは、周に勢威に陰りが見えた時に、

中興を成し遂げた人物である。

中興といえば、宣王のことで、

その後中興を成し遂げた人物は「宣」という諡号を送られるのは、

この西周宣王に由来する。

事例としては、

前漢の宣帝、

西晋の宣帝司馬懿、など。

両者とも中興の祖である。

 

つまり、

庾翼は甥の東晋成帝に、

東晋が中興を成すためには、

桓温を活用すべきであると言っているのだ。

 

庾翼は桓温の才能を認めていた。

桓温も義理の叔父である庾翼の影響を

多分に受けた。

叔父といっても、7歳しか違わない。

 

長男で、早くに世に出る前に

父を亡くした桓温にとって、

兄のような存在だったであろう。

 

●343年北伐の実行。

 

庾翼は荊州を確実に掌握して、

いよいよ北伐の準備にかかる。

 

東晋内は反対意見が強かったが、

次兄で最高権力者の庾冰は

庾翼を全面的に支持しているので、

北伐遂行に支障はない。

北伐は庾氏一族にとっての悲願である。

 

庾翼は北伐を推進することとなる。

 

・遼東の慕容皝、涼州の張駿と連携。

 

庾翼は、遼東の慕容皝、

涼州の張駿との関係を強化する。

 

両者とも東晋の冊封を受けていた。

東晋の皇帝、および東晋の中華における支配を認めていた。

両者ともいわば軍閥だが、

東晋の皇帝の下にいるということは、名目的であれ認めていた。

 

そこで庾翼は北伐を遂行するにあたり、

後趙の背後にいる、慕容皝と張駿との連携を強め、

背後を窺うよう連絡を取る。

国家単位の北伐なのでこうした動きも出てくる。

 


北伐の任に

誰をあてるのが話題になったが、

庾冰、庾翼ともども、

桓温と司馬無忌を当てることに決めていた。

司馬無忌は、司馬八達と呼ばれる司馬懿の兄弟の

6番目司馬進の子孫。父司馬承は王敦の乱で殺されていた。

司馬無忌は幼年のため命を助けられていた。

 

343年7月、

後趙の汝南太守が数千人の人を連れて東晋に投降してくる。

これをもって、東晋康帝の詔勅が下り、

北伐の実行となる。

 

揚州と荊州両面から北伐。

揚州は、

桓温を先鋒都督として、

建康方面から刊溝を使って、

淮水方面へ出兵。

 

荊州方面は庾翼が担当。

 

庾翼は一気に

荊州北部の襄陽に本拠を移して、

戦うことを希望するも

それは許されなかった。

 

庾翼は襄陽に赴き、

後趙の樊城を攻める。

庾翌の進撃は順調であったが、

桓宣(桓温と同族)が

丹水(南陽)において後趙に敗れる。

これにより、庾翼の北伐は失敗に終わる。

 

 

●康帝の崩御、2歳の幼帝穆帝即位。

 

一度北伐に失敗したからといって、

それで終わるほど、東晋にとって北伐は軽いものではない。

 

東晋が中華統一王朝の認識を持っている限り、

華北の回復は必ず成し遂げなくてはならない。

 

次の北伐に備えようとした矢先、

東晋皇帝康帝が重篤に陥る。

 

後継問題へと発展する。

康帝の子は2歳。

 

北伐という、

大規模な軍事行動を起こすにはおぼつかない。

 

庾冰・庾翼の希望は司馬昱だった。

北に賊が跋扈していて討伐しなければならない

非常事態なのでという理由で、

康帝の叔父に当たる、司馬昱を推薦した。

しかし、

それは中書監の何充の反対に遭い、

叶わなかった。

 

何充は、江南出身の人間であったが、

王敦の幕僚として世に出た。

のち、王敦の乱で王敦を裏切っている。

 

何充は、庾氏・瑯琊王氏の両方の姻戚であった。


妻は庾亮、庾冰、庾翼の兄弟で、

庾文君の妹である。

母は瑯琊王氏王導の妻の姉である。

何充にとって、王導は義理の叔父ということになる。

 

という経緯を考えると、

何充は、瑯琊王氏と潁川庾氏との間を取り持つ、

調整役であったと思われる。

力の強い両氏に挟まれる何充は力を持つ代わりに、

両氏に配慮しなくてはならない。

 

その背景を念頭において考えると、

司馬昱の即位は

瑯琊王氏にとって望ましくないと判断された。

瑯琊王氏はこの後も北伐反対派であるので、

この判断は当然と言える。

 

何充の調整の結果、

康帝の2歳の子が後を継ぐ。

穆帝である。

この何充の処置を庾冰、庾翼は恨んだとする。

 

●司馬昱を後継にしようとする無茶。

 

しかし、北伐いかんとは別の視点で、

司馬昱が後を継ぐというのは、

華北が定まっていないという情勢があるとは言え、

かなり無理がある。

 

司馬昱は後年結局皇帝につくが、

その際の廟号は太宗である。(なお諡号は簡文帝)

これは前漢の文帝と同じで、

何を意味するかと言うと、

血統が変わったことになる。

 

本来前漢は劉邦の嫡子恵帝の系統が立つはずだったが、

呂后らの専横によりそれができなくなった。

そこで後を継いだのが文帝だが、

彼は劉邦の庶子であった。

恵帝が本来継ぐはずだったのに、

文帝の系統が家を継ぐことになる。

 

それで廟号は太宗となる。

太宗というのは家の大元という意味であり、

本家の系統が変わったことを意味する。

 

司馬昱も太宗ということで、

本来は兄の明帝の家が代々皇位を継ぐはずなのに、

系統が変わったため、太宗とされた。

これは皇帝を継ぐべき家がかわるということである。

大きな政変など、

何かが起きないとこれは本来難しいのである。

 

結論として、

庾冰と庾翼の兄弟は

北伐遂行のために司馬昱を皇帝とする

非常体制を取りたかったが、

それはできなかった。

二歳の幼帝穆帝が344年9月に即位する、

 

●巴の獲得と、庾冰・庾翼の死。

 

この二か月後、庾冰が344年11月に急逝する。

庾冰は中央政府を握っていたが、

これにより庾翼が中央政府にまで関与することになった。

 

庾翼は庾冰の後を継ぎ、

政治体制も固める。

庾翼は再度武昌に駐屯し、

北伐をすべく準備を行う。

その中で、蜀の成漢を長江沿いに攻め、

江陽(現在四川省瀘州市。古の巴である重慶の西)にて大勝している。

これで益州の巴までは東晋が押さえた。

庾翼時代の大成果である。

 

しかし、翌345年庾翼は、

悪政の腫物(疽と言う)が背中にでき、

急死してしまう。

庾翼は次子の庾爰之に

荊州の軍権を継がせることを遺言する。

 

しかし、何充は、

ここでも庾氏の意向を聞かず、

桓温に荊州の軍権を任せることにした。