歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

東晋北伐④ 庾冰・庾翼の死後、桓温が庾氏勢力の後継者。

 

344年の庾冰による皇帝後継として

推挙されたのが会稽王司馬昱。

371年桓温に皇帝に推戴されたのが司馬昱。

 

これらをつなげる要素。
それは、
桓温は庾氏勢力の後継者である、

ということである。

 

 

 

●とにかく幼帝を嫌がった庾冰・庾翼:

 

343年、

東晋建国26年にして、

ようやく北伐を実行した庾翼であったが、

北伐は成功しなかった。

 

とはいえ、

華北の回復、北伐は

東晋の至上命題である。

 

一度の失敗で、

その意欲が潰えるものではない。

 

再度の北伐を実行すべく、

体制を固めようとする。

 

〈康帝の危篤〉

 

だがその矢先、

344年に東晋皇帝康帝が重篤に陥る。

まだ22歳である。

342年に帝位についたばかりであった。

 

康帝は、先代の成帝の弟である。

明帝の子で、庾冰・庾翼にとって甥にあたる成帝は、

342年に21歳で崩御していた。

子ののちの哀帝はまだ1歳であった。

 

庾冰が幼帝を嫌がったため、

弟の後の康帝に継承させた。

庾冰が幼帝を嫌がったというのはポイントである。

この理由が大事だ。

 

一般的には、

庾亮、庾冰、庾翼は、

外戚として力を握るために皇位継承に口を出したとされるが、

本来外戚が力を握りやすいのは、幼帝である。

 

成帝の子供が皇帝になると外戚の地位から外れるから、

弟の康帝(同母弟なので庾氏は外戚となる)を選んだと

されるが、

どうにも生真面目、頑固で、法家を自認する

庾氏のイメージとそぐわない。

 

事実、確かに同母弟の康帝であれば、

外戚の地位を庾氏は守れる。

母は庾氏のままだからだ。

 

しかしそれは本当に権力のためだけなのか。

 

●庾冰・庾翼ら庾氏の悲願、北伐。

 

庾冰、庾翼が外戚のままであれば、

北伐を遂行しやすいというのもある。

 

庾翼の北伐343年は康帝の治世であり、

実際に北伐を行った。

 

この辺りの事情を鑑み、

真面目に北伐遂行するためには、

実子では幼帝のため不安定になる。

成人している弟の康帝にしたという方が

よいと考えた。

この方が、

話はすっきりすると私は考える。

 

北伐のために幼帝は避け、

成年の皇帝を据える。

 

背後を気にすることなく、北伐に邁進したい。

それが庾冰、庾翼の気持ちだった。

これが342年の時の結論だった。

 

これは康帝重篤となっても変わらない。

 

〈血統を変えてでも成年皇帝にこだわった庾冰・庾翼〉

 

今度は344年である。

康帝重篤の際に、

庾冰、庾翼が推薦したのは、

司馬昱であった。

 

司馬昱は東晋初代皇帝元帝の末子で、

当時21歳。

成帝、康帝とほぼ同年代なのである。

 

四分の一でも庾氏の血が入っている、

成帝や康帝の子ではなく、

全く関係がない司馬昱を選んだ。

司馬昱の母は鄭氏で、
庾氏とは全く関係がない。

 

外戚の座を捨ててまでも、

庾冰、庾翼は幼帝を嫌がったのである。

 

幼帝では北伐に支障がある。

であれば成年の

司馬昱を推挙したい。

何が何でも北伐実行、庾氏の悲願である。

 

さらに言うと、司馬昱自身、

庾冰、庾翼の北伐推進論に共感していた可能性が高い。

 

後年、桓温が三次北伐に失敗した後に、

司馬昱を皇帝にしていることから、

私は司馬昱は

北伐推進派で、

庾氏兄弟や桓温と密接な関係であった、と私は考えている。

 

司馬昱が北伐推進派として、

庾冰、庾翼、桓温を支えてきた。

 

しかし、なぜこれが表に出てこないか。

それを好ましいと思わない、

陳郡謝氏や瑯琊王氏が、

この事実を書き換えたのである。

 

実はこのように考えないと、

この後訪れる桓温の時代、28年の間、

中央政府で桓温を支持する人物が存在しないことに

なってしまうのである。

 

しかし、344年の段階で、

司馬昱を後継皇帝にするのは相当無茶なことだった。

 

●作られたヒーロー、桓温が更に躍進する。

 

さて、この司馬昱、皇帝擁立の代替案が、

桓温に軍の枢要を握らせることである。

 

桓温は、庾亮が引き立てた。

 

庾亮が桓温を東晋皇帝明帝の婿にした。

明帝の娘は、庾文君の子でもある。

庾文君は庾亮の妹である。

 

庾亮の目的は、

輿論の支持を受けていた桓温を取り込むこと。

 

桓温はその期待に応えた。

庾亮という最高権力者が、

桓温というヒーローを作り上げた。

 

庾氏のためである。

 

●桓温を何充が重責に充てる。

 

340年庾亮、

344年庾冰、

345年庾翼と

優秀な庾氏三兄弟が世を去る。

 

庾翼は334年の陶侃の死後、

庾氏が握っていた西府軍の軍権を

息子の庾爰之(ユエンシ)に引き継ぐよう遺言する。

 

ここで出てくるのが、

何充である。

庾兄弟の義弟である。

何充は庾翼の遺言に逆らい、

桓温を西府軍の後継にした。

庾冰亡き後の中書監として中央政府を

掌握したのがこの何充であった。

 

●何充、潁川庾氏と瑯琊王氏の両氏と姻戚。


何充は庾氏と姻戚である。

 

何充は庾氏三兄弟の妹で明帝の皇后庾文君とはまた別の、

妹を正妻に迎えている。

 

庾氏三兄弟とは義理の兄弟で、

さらに東晋明帝の義弟ということになる。

 

このような姻戚関係および

高位にあるので、

庾翼亡き後の

庾氏の後見人の立場である。

 

さらに何充は、

瑯琊王氏とも姻戚関係があり、

実は義理の叔父が王導である。

母の姉が王導の正妻である。

 

王導の甥である何充は元々、

王敦の属官であった。

 

瑯琊王氏の統領は王敦なので

自然の流れである。

 

しかし、王敦が第二次王敦の乱のとき、

病に伏せると、王導と共に何充は王敦を見限ったようだ。

 

王敦の乱で、王敦らを売った王導が高位を得る中、

義理の甥何充も栄達する。

 

このように言うと王導は何とも悪人にしか見えないが、

王敦はどうやら不死の病であったようだし、

血の繋がった子もおらず、王敦の乱には出口戦略に

ほころびがあった。

王導が皇帝側に寝返るのもやむを得ないと私は考える。

 

王敦を支持し続けるということは、

つまり王導が王敦の後継者として、

東晋皇帝に刃向かうということを意味する。

 

王敦の後を担うほど、

王導にそこまでの気概はなかった。

 

王導は339年に世を去る。

 

この後、瑯琊王氏で世に出てくる人物が見当たらない。

東晋の歴史に出てくる、

王という姓の者は、太原王氏ばかりである。

しかし、瑯琊王氏は王敦、王導以来の

権益を持っているので、隠然たる力を持っているのは事実である。

 

その瑯琊王氏の意見をを中央政府で

代弁するのがこの何充であったと思われる。

 

結論、

何充は、瑯琊王氏王導の甥であり、

潁川庾氏庾亮の妹婿である。

 

 

この東晋に強い権力を持つ両氏の

バランスを保たないと、

何充にとってはメリットがないどころか、

非常に危険である。

 

●何充の政治センスが桓温の台頭を産む。

 

当然、何充は両家とつながりがあるが、

氏は何氏であり、両家ではない。

自家を守るために、

瑯琊王氏と潁川王氏に配慮をする必要がある。

 

〈何充の裁定①康帝後継〉

 

その一つ目が、

康帝の後継者選定である。

 

潁川庾氏は北伐の遂行のために、

司馬昱を推したが、

何充は反対し、

2歳の穆帝を後継にした。

 

何充は義理の兄である、

潁川庾氏の庾冰と庾翼の意向に反対するからには、

相当なメリットがなければ難しい。

 

ここには瑯琊王氏の意向があると考えるのが自然である。

 

何充はうまく、

瑯琊王氏と潁川庾氏との関係性を

バランス良く保とうとしているのである。

 

〈何充の裁定②庾翼後継〉

 

二つ目は、
庾翼の死である。

庾翼は西府軍の後継者に

実子庾爰之を推したが、

何充はこれにも従わなかった。

 

桓温を推して、西府軍を掌握させたのである。

 

何充は、西府軍の後継が庾爰之では心許ないと

考えたというのが私の結論である。

 

庾翼は40歳で死去。

庾爰之は生没年不詳であるが、

父庾翼の年齢からして、

20歳前後以下と見るのが妥当だろう。

 

となれば、まだ才能があるかどうかもわからない。

明らかに若年である。

 

そのような庾爰之に後を継がせるよりは、

33歳で、とはいえ若いが、

輿論の評判も良く、庾冰・庾翼の評価も非常に高かった、

桓温を引き上げる方が良いと、

何充は考えた。

 

庾氏が没落するのは何充としてもまずいのである。

瑯琊王氏と潁川庾氏の両氏の繁栄が、

何充にとって最もメリットがある。

 

若い庾爰之に引き継いで、

今後どのような経緯となるかわからないのにかけるよりも、

評価の高い桓温に

橋渡しをしたかった。

これが何充の結論である。

 

 

2歳の幼帝穆帝はやむなしだが、

それに加えて、若年の庾爰之では

不安定すぎる。

 

庾氏に連なる人物は、

何充を除けば桓温しかない。

 

345年、庾翼の死後、

庾翼の義理の甥、桓温が

西府軍を引き継いだ。

 

これで、

桓温は庾翼および庾氏勢力の

後継者としての立場を固めたのである。

そして庾氏の悲願、北伐を遂行する。