歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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春秋時代と戦国時代の境目はいつか。

春秋時代と戦国時代の境目がいつか。

 

この結論は、

私は晋の趙氏に内紛が起き、

そこにほかの晋の六卿が介入した前497年、

これが境目だと考えている。

 

 

本来は、晋公という君主の下、

六卿と呼ばれる大臣が晋という国を運営する。

それが晋の在り方だった。

しかし趙氏の内紛に乗じて、

各六卿が自家の利益を求めて参入する。

それはもはや、晋という国家の問題ではなく、

ただの権力争いだった。

それまで晋において、有力氏族の誅殺というのは、

度々あった。

趙氏、郤氏、欒氏、などである。

これらは晋公の意向も含まれていた。

 

しかし、叔向の羊舌氏が滅ぼされた前513年頃から、

力のある氏族の争いへと変化していく。

 

前497年に始まる趙氏の内紛は、晋国を二分する戦いとなる。

乗じられた趙氏当主趙鞅が勝利し、乗じてきた中行氏、范氏は国を追われた。

中行氏、范氏両氏の領地は、残った六卿で分配。

そこに晋公の意向は顧みることさえされなかった。

晋が事実上国としての実態を失った瞬間である。

これ以後、晋では各氏族が互いに相争う時代へと進む。

各氏族はそれぞれ局地的に戦い合い、まさに戦国の世となる。

 

 

●春秋時代と戦国時代の境目。通説は晋の視点。

境目の通説は三つある。

 

〈前451年(前453年)〉

 

前451年(前453年)に

晋が韓魏趙の三氏によって事実上分割されたとき。

智氏が、韓氏と魏氏を誘って、趙氏を攻める。

趙の当主趙無恤は晋陽に籠城。

智氏は数年間掛けて晋陽を囲み、水攻めなどする。

最終的には趙氏が韓氏、魏氏を智氏から裏切らせ、

逆に趙氏が智氏を滅ぼしたという史実だ。

 

〈前401年(前403年)〉

 

もう一つは

前401年(前403年)である。

この時に、韓魏趙の三氏、いわゆる三晋が、

周王により諸侯として認められた時である。

三晋ともに侯爵で、晋の君主と同格となった

なお、その認め方は相当にダメ押しである。

韓魏趙の三氏、三晋が連合し、斉を攻める。

斉の最後の君主、康公を捕らえる。

三晋は、捕虜となった斉の康公を連れて周王に謁見し、

封侯とするように求めた。一種の事件である。

 

韓魏趙の三氏、三晋は、これにより晋の臣下ではなく、

周王の臣下となった。

今までは、

天子である周王の臣下である晋公の臣下であった。

これを陪臣(ばいしん)と呼ぶ。

それが、周王の直接の臣下となった。これを直臣(じきしん)と呼ぶ。

これは権威の格が全く違う。

さらに当時は周王の直臣は、封侯、すなわち周王に認められた君主であるので、

事実上の独立君主である。

 

韓魏趙の三氏、三晋は、周王の直臣晋公の領土を

食い荒らす悪臣ではない、正統な君主だと周王、

イコールこの中華世界に認められたことになる。

いわば下剋上である。

下が上を乗っ取ることが認められたのである。

周王は自分の直臣晋公が臣下にやられたことを咎めるという名を取ることなく、

這いあがってきた三晋を認めることで、

周王としての存在を守るという実を取った。

 

〈前386年〉

 

ほかの諸説は、

例えば前386年に晋が事実上滅亡した年を戦国時代の始まりとする、といった

ものである。

公に認められたというのはこれは政治的な問題であり、

その前から韓魏趙の三氏が晋を三分して事実上の君主として振る舞っていたという

事実はあった。

 

前451年(前453年)や前401年(前403年)、

前386年は、

晋の韓魏趙による分割の最終確定のタイミングである。

それらがすなわち、戦国時代の始まりとはならない。

 

●「春秋」の終わりが戦国の始まりか。

 

これらの時期を区分にするのは非常に政治的な判断である。

 

そもそもこの時期に注目するのはもう一つ理由がある。

 

春秋時代の「春秋」という名前の由来となった、

書物「春秋」が前481年にその記述が終わっていることにある。

なので、ここまでは春秋時代と確定してしまっているのである。

 

前481年以前は戦国時代ではないということであるが、

これに関して私は疑問だ。

 

一つの説として、この翌年前480年から

戦国時代が始まるというものもある。

 

これは定義、つまり理屈の問題である。

 

我々が知りたいのは、歴史上、

春秋時代から戦国時代に変わる明確なタイミングである。

 

そして具体的に何が変わったのか、ということである。

時代が変わると、時代を動かしていたルールが変わる。

 

だが、中華と言うのはこの春秋時代と戦国時代の境目の時期でも、

既に広大なエリアを意味している。

 

●春秋時代の中華は、晋・楚・斉の三大国により分裂している。

 

晋、斉、楚という三つの大国で、それぞれ歴史は動いている。

大きな同心円は中華という単位だが、

晋、斉、楚という三つの中くらいの同心円がさらにあるという状況だ。

晋でルールが変わっても、ほかの斉、楚は同時にはならない。

ここが難しい。

 

ここを認識したうえで、この三大国のエリアごとにルールが変わる時期を探る。

それは、

晋は前497年の趙氏内紛、

斉は田乞が前500年のより前に、税の徴収時と配給時に異なったサイズの枡を

使った時、

楚は前506年の呉王闔閭による楚侵略、楚の王都郢の陥落、

である。

 

晋と斉は、

それぞれ、晋公、斉公の臣下が、

晋公、斉公を見なくなった時。

晋公、斉公が有名無実になるタイミングである。

 

楚は中原に目が向かなくなった時である。

楚の成王以来200年近く南方の大国であった楚の、

南方における覇権が脅かされるようになった。

それぞれがそれぞれの国の事情に捉われ、

中原の覇権をどうするか、というフェーズではなくなった。

中原の覇権をどうするか、が春秋時代の大きなテーマであった。

これがテーマでなくなった時、

それが次の時代の始まりだと私は考える。

 

春秋時代の中華三大国全てが、

戦国時代へと移った時。

それが戦国時代の始まりと私は考える。

 

それは、

三つの事件の最後、

晋の六卿戦争が起きた前497年である。