歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

戦国時代概説④ 最後は秦の時代

 

戦国時代は、

魏の時代が最初で、

次に斉の時代が訪れ、

最後に秦の時代となり、中華が統一される。

 

●秦の献公に始まる7代かけた天下取り。

 

秦の隆盛は秦の孝公に始まるが、

その基盤を整えたのは実は、

秦孝公の父、秦の献公である。

 

春秋時代の秦の穆公の後、

中原に影響を及ぼす事績に乏しかった秦。

辺境の国秦は、

秦の献公の即位から急速に中原諸国と接点が増える。

 

中興の祖、秦の献公である。


ここから7代に渡る天下取りが始まる。

①秦の献公、
②秦の孝公、
③秦の恵文王、
④秦の武王、
⑤秦の昭襄王、
⑥秦の荘襄王、
そして⑦秦王政に至り、中華統一となる。


秦の献公以来数々の新たな施策が実施される。

このような情況からして、秦の献公に始まるこの系譜は、

事実上新しい王朝と言えると私は考える。

 

●秦の献公以後は事実上の新王朝

 

秦の献公は本来は後を継ぐべきだったのに、

継ぐことができず、他の系統が後を継いだ。

しかし、内紛の結果、結局秦の献公が継いだとしている。

 

この辺りの話は不明瞭で怪しい。

またこの手の話は、

晋の文公重耳の祖父、晋の武公が

晋の本流を滅ぼして乗っ取った話に

似通っており、後付けの臭いがする。

 

秦の献公以降は国がまとまり、

君主の強い権限のもと改革が推進されることから、

秦の献公以降は

それまでとは異なる何らかの新しい王朝だと私は考えている。

 

例えば、歴史の古い国は簡単に遷都できない。

従属する諸族の利権が絡むものであり、

簡単ではない。

戦国時代遷都を行ったのは、

三晋という新興国家に限られ、

それ以外は楚が秦に首都を奪われたタイミングに限られる。

 

歴史の古い国においては、

遷都は基本的にない。

君主の権限が強くてもできない。

諸勢力の反対が強いばかりか、

その概念すらないのが普通である。

 

なのに、即位直後遷都をした秦の献公は、

それまでの秦公とのつながりを感じさせないのである。

 

むしろ、このような場合の遷都は、

昔からの勢力からの影響を避けるための遷都と考えた方が

一般的である。



●戦国時代の主導権を秦が握るまでの経緯概観

 

秦の献公と秦の孝公は、

内部を固めつつ、とにかく東の魏を攻めまくる時期である。

それが功を奏し、

魏の西河、河東を手に入れる。

これは春秋の旧晋のメインエリアで、開発の進んだエリアでもあった。

 

戦国時代の初めに主導権を握った魏が

没落していく時代とちょうど重なり、

秦は時の利を得ていたと言える。

 

その後恵文王の時に、

斉以外の他国を凌駕するようになる。

そこを斉に叩かれ、秦は隠忍自重の時を送る。

その間、斉は全盛期。

 

斉が中原を押さえているため、

秦は函谷関より東に出れない。

秦は南方へ目を向け、

蜀、巴エリア確保。そして楚を狙う。

 

秦の昭襄王の時、

斉が宋の攻略を機に、

他の六国を敵に回す。

斉の失策である。

 

秦の昭襄王は合従軍の一角として、

斉を攻撃、亡国寸前まで追い込み、

さらに楚を攻撃、湖北・湖南エリアを確保。

 

戦国時代は秦の時代へと移る。

 

①秦の献公年表

 

・前385年秦の献公即位。

献公即位まで秦は内紛が続いていたがこれで収まる。

 

・前384年秦、殉死を禁止する。

殉死は異民族の文化。これを禁止するということは、

漢化を意味する。逆を返せば、秦は異民族であったとも言える。

 

・前383年秦、雍城から櫟陽に遷都。

関中平野の西端から東端に遷都。中原方面へ軸足を置く。

国境を東に接する魏の攻撃が始まる。

上記にも書いたが、

この遷都は国家としての体質が変わった可能性の高い

史実である。

 

・前361年秦の献公死去。

 

②秦の孝公年表

 

・前361年秦の孝公即位。

同年、魏が都を河東の安邑から中原の大梁に遷都。

秦からすれば、東は黄河の向こう、河東に

魏の本拠地安邑があったが、

この遷都により魏の圧力が下がったことになる。

これで、胸をなで下ろすか、攻勢に出るかは、

秦の中枢部次第である。

 

・前359年秦、商鞅の変法開始。

商鞅が何をしたか、簡単に言えば君主権の強化である。

・前350年櫟陽から咸陽に遷都。

関中平野の東に位置する櫟陽から

真ん中の咸陽に遷都。

・前340年秦の商鞅、魏を侵略、黄河以西の西河を奪う。

前342年に魏は馬陵の戦いで斉に大敗。

魏は弱っていた。

これで関中の確保が成る。

・前338年秦の孝公、死去。

 

③秦の恵文王年表

 

・前338年秦の恵文王即位。

(まだ王号を名乗っていないので、侯である。)

その後商鞅殺される。

商鞅の変法は既存勢力の権益を奪うものであった。

秦の孝公の死で商鞅に対する反発が噴き出た結果であった。

恵文王はこれを認めるが、

商鞅変法の路線は変更しない。

商鞅は恵文王に改革のための生贄にされた。

 

・前325年秦の恵文王、王を称する。

王を称するのは、

魏が前351年、斉が前339年、趙が326年、

秦はこれらに続く四例目。

この後、前323年に燕が、

前322年に韓と宋が王を称する。

 

・前318年秦の恵文王、魏の式典に模して、蓬沢の会を催す。

 

恵文王は、

魏王と韓王を諸侯として扱う。

この式典に反発し、合従(合縦)成立。

反秦同盟、反秦包囲網ができたと考えた方がわかりやすい。
趙、韓、魏、燕、斉と義渠(後の匈奴のこと)が秦を討つ。

秦の中原進出が鈍るようになる。

 

・前316年秦が蜀と巴を攻略。

蜀王を贈り物で釣って騙し討ちして獲得した。

・前312年秦、楚の漢中を攻略。

張儀の策略で楚を江北へ出兵させた隙を突いての攻略であった。

前311年秦の恵文王死去。

恵文王という諡号からは想像しにくいが、

かなり狡猾な王であった。

 

④秦の武王年表

 

・前311年秦の武王即位。

・前307年秦の武王死去。

秦の武王は怪力自慢で、

周王の権威を象徴する鼎を持ち上げようとして失敗し、

大怪我をする。

その怪我が元となり、なくなった。

 

⑤秦の昭襄王年表


・前307年、

趙の武霊王の後援の下、昭襄王即位。(~前251年)

 

・前298年斉の孟嘗君による合従により、秦は攻撃を受ける。

秦は函谷関以東に締め出される。

 

・前297年秦、会盟のためにやってきた楚の懐王を拘留する。

懐王は秦に拘留されたまま死去。

約100年後の項羽が秦を滅ぼす時にこの事件がプロパガンダとして

使われる。秦楚間はこれで完全に決裂する。

 

・前289年、斉の湣宣王と秦の昭襄王、帝を称す。

(宋王偃の帝を名乗ったことに対する対抗か。)

 

・前286年斉が宋を滅ぼす。

宋の帝号に対して斉も帝号を称して同格の君主として攻め込んだ。

・前284年斉に対抗して、燕、楚、趙、魏、韓、秦の

連衡成立(反斉同盟)。

上記斉の宋攻略を諸国は嫌った。

燕の楽毅を中心とした連衡軍、斉の臨淄を攻略。

斉は亡国寸前に追い込まれる。

・前280年、斉は田単の尽力で、復国。

・前279年秦、白起が楚を攻撃。

・前278年秦、楚の王都郢を攻略、湖北エリアの確保。

・前277年秦、蜀から長江沿いに下り、湖南も掌握。

ここから、戦国時代が秦の時代へ移行する。

 

秦は斉のゴタゴタに各国がとらわれている機に乗じて、

広大な領域を手に入れていた。

 

関中から南に漢中、蜀、巴、さらに東に行って、

楚のメインエリア、湖北・湖南までを確保。

他エリアへのメインルートは、

関中から函谷関経由で東に向かうか、

湖北から北へ南陽、楚の方城を越えるか、

長江を東に下って今の武漢を越えるか、

しかなく、広大なエリアにもかかわらず、守りやすい地勢。

秦にとって絶好の情勢となる。

 

・前261年~前260年 秦、趙と長平の戦い

趙が大敗。秦はこれ以後趙を集中的に侵略。

・前257年趙の平原君、魏(信陵君)・楚(春申君)・斉からの救援を実現。

合従(合縦)の成立(反秦同盟)。一旦、秦は押し返される。

・前256年秦、東周を滅ぼす。

・前251年秦の昭襄王死去。

 

⑥秦の荘襄王年表

 


・前251年、

呂不韋の支援で、荘襄王即位。

・前247年秦の荘襄王死去。

 

⑦秦王政年表

 

・前247年、秦王政即位。

このころ、呂氏春秋成立。秦の正統性主張の書物である。

 

・前238年秦にて嫪毐(ロウアイ)の乱。呂不韋はこれに連座し失脚。

秦王政の親政が始まる。

 

・前230年秦、韓を滅ぼす。

・前228年秦、趙を滅ぼす。趙の公子嘉が代に逃れ、独立。

・前227年秦、燕の王都薊を攻略。

燕は遼東に逃れ生き残るが、

国としての実態はこれで滅亡。

・前225年秦、魏を滅ぼす。

・前223年秦、楚を滅ぼす。

・前222年秦、燕を滅ぼす。

・前221年秦、斉を滅ぼす。

秦による中華統一が成る。

秦王政、秦の始皇帝となる。