歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

東晋北伐⑤ 桓温の成功体験 成漢討伐は電撃戦

建国以来30年近く停滞している東晋。

 

この鬱屈とした東晋に

光明をもたらしたのが桓温である。

 

346年から347年にかけて、

たった一万の寡兵でもって、

蜀の成漢に攻め込み、制圧した。

 

魏末の司馬昭が20万人の大軍で

蜀漢を滅ぼしたのに比べたらとんでもない快挙である。

 

 

●桓温が西府軍を預けられた理由

 

庾翼の死を受け、

庾翼の義弟で中書監の何充(妻が庾氏)は、

桓温に荊州の軍権(西府軍)を預けることにした。

 

ややこしいが、

桓温にとって何充は義理の叔父に当たる。

桓温の妻の母は庾文君(妻の父は東晋明帝)で、

その妹が何充の妻である。

 

桓温であれば、

瑯琊王氏の支持を取り付けることができた、

それが何充の本音であろう。

 

庾亮が334年に掌握して以来

10年以上荊州の軍権は、

庾氏のものだった。

 

これは諸勢力が強調した結果生まれた状況である。

 

瑯琊王氏の王導は

第二次王敦の乱に際して、

王敦を見捨てた。

それで生き残った。

王導を首領とした瑯琊王氏は、

外戚である庾亮の潁川庾氏と協調することで、

生き延びてきたのである。

 

一方、庾亮、庾冰、庾翼ら潁川庾氏も

蘇峻の乱を引き起こしたことで、

著しく名声を下げる。

 

勢力が退潮するも、

外戚であることは変わらなかったので、

10年以来権力を握ってきた。

五つの派閥がある東晋の中で、

頭一つ抜けていたのが潁川庾氏である。

 

●東晋五つの派閥

www.rekishinoshinzui.com

 

 

しかし、ここで瑯琊王氏の力が

相対的に強まってきた。

 

潁川庾氏の庾亮世代が庾翼の死により、

全員退場したためである。

 

何充は潁川庾氏の姻族であるとともに、

母の姉、つまり母方の叔母が王導の妻であることから、

力が強まってきた瑯琊王氏にも配慮しなくてはならない。

 

庾翼の若年の息子というわけにはいかなかった。

 

その点、桓温はまだよかった。

庾氏の姻戚とは言え、氏族は異なり、

庾氏の子弟が継ぐよりも、

瑯琊王氏にとってはまだましだった。

 

また、潁川庾氏からみると、

桓温は庾氏兄弟にとって義理の甥である。

妥協点としては、

良い落としどころである。

 

調整役の何充としても、

瑯琊王氏、潁川庾氏の両者の了解を

取り付けやすかった。

 

結果として桓温にお鉢が回ってきた。

桓温33歳の大抜擢である。

 

●桓温、345年荊州に出鎮。西府軍の掌握。

 

父の仇討ちで名を挙げ、

庾亮の世論工作に乗っかることで、

皇帝の婿となった桓温。

 

庾翼の高い信頼も得て、

343年北伐の際には、刊溝方面を任された。

 

本来なら、庾翼の下で副将格として

活躍するはずだった桓温。

 

それが庾翼の40歳での死、

諸勢力の権力争いの結果、

 

桓温に西府軍が委ねられる。

庾翼の後継者として荊州の軍権を束ねることになった。

 

具体的には、

安西将軍、荊州刺史、持節都督荊司雍益梁寧六州諸軍事、となった。

 

●345年の東晋の対外情勢

 

東晋の国境線は

揚州は寿春の手前、

荊州は襄陽、樊城の線をそれぞれ北端とする。

それより北は石虎が治める後趙の領域である。

 

荊州の西は、益州の巴まで支配していた。

巴は庾翼の最晩年に手に入れたものである。

 

343年に庾翼北伐を実行したことにより、

北の後趙は東晋に対して警戒している。

 

後趙の皇帝は石虎で、勇猛で戦上手である。

簡単には戦えない相手である。

 

339年には北伐の準備をしていた庾亮が、

石虎に察知され、荊州の奥地まで攻め込まれたことがある。

苦い思い出である。

 

後趙石虎は組みし難い。

 

東晋にとって隙がない状況であった。

 

しかし東晋の荊州の西に、

もう一つ敵がいた。

成漢である。

当時成漢は混乱をしていた。

 

●成漢 実は成国と漢国である。

 

この今の四川省にあった成漢だが、

実は成漢という国は厳密には存在しない。

 

この国は、成という国の時代と、

漢という国の時代があった。

血統が代わるので王朝も変わったのだが、

実態はほぼ変わらないので、歴史上ではまとめて

成漢と呼ぶ。

 

成漢成立の由来は下記である。

 

八王の乱の最中、

巴氐族が蜀にて独立、

成という国を作った。

 

この巴氐族は、

曹操が215年に漢中の張魯討伐を行った後、

一族集団ごと天水の略陽に連行した末裔である。

 

296年に関中において、斉万年の乱が勃発。

これにより関中周辺が飢饉に陥り、

漢中に南下した。

 

さらに蜀へ移動しようとしたが、

西晋は認めなかった。

しかしそれでも、

西晋の使者を賄賂で籠絡して、

強引に認めさせる。

 

こうして巴氐族は

蜀に入る。

 

ここで折しも八王の乱が勃発。

 

この巴氐族は蜀で自立することとなった。

304年10月のことである。

匈奴の劉淵が自立したのと同年同月である。

 

これを実行に移したのは

李雄という名君である。

華北が八王の乱、永嘉の乱と乱れる中で

蜀の成国は安定していた。

大乱が続く中、

流民の逃亡先となっているほどであった。

 

この李雄は303年から334年と31年君臨。

蜀は中原の大乱とは別天地の様相を呈した。

ちょうど石勒が勃興していく時代と重なる。

 

しかし李雄の死後、成国は内紛が起きる。

李雄は甥を後継者にするが、

李雄の死後、この裁定に不満を持った李雄の子が反乱。

 

この反乱が長引き、

最後は李雄の従兄弟の李寿が

338年に李雄の血筋を滅ぼし、自身が皇帝となった。

李寿は李雄とは別家なので、

宗廟も新たに創る。

 

国号をここで成から漢へと変える。

 

この時代は司馬炎のせいで、直系でなければ

王朝を継げないという考え方が流布していた。

 

直系ではない者が皇帝になるには、
王朝を変えなくてはならないという考え方があった。

成漢もこの風潮にならったのである。

 

劉淵の王朝を、

劉曜は継ぐが、国号を漢から趙へ変えたのは

具体例の一つだ。

 

本来、石虎もそうなのだが、

石虎は異民族の流儀、弱肉強食で皇帝としての正統性を

強引に押し切った。

 

しかし、李寿は石虎のようにはできない。

そもそも氐族というのは異民族といえ、

相当に漢化している異民族であった。

また、

蜀は漢人の割合が非常に高いエリアであった。

 

こうした漢人文化の考えには配慮をする必要がある。

 

東晋の影響も強く、東晋へ寝返る漢人も多い。

前々時代の、蜀漢の遺風も残っている。

 

そこで、

匈奴の劉淵は西晋に対するアンチテーゼで、

漢を名乗ったが、

最終的にはこれも踏まえて、李寿は338年漢を名乗った。

 

劉淵は蜀漢の劉禅を皇帝として宗廟に祀っている。

蜀を治める李寿は、

劉備、劉禅、劉淵の後継として、漢を名乗ったのである。

 

こうして、

成から漢へ国号を変えたので、

これらは実は別王朝である。

 

しかしこれは実は対東晋施策としてはまずかった。

東晋は晋である。

晋は魏の天命を禅譲という形で受けている。

魏は後漢の天命を禅譲で受けている。

 

つまり晋、東晋は漢の天命の後継者なのに、

成漢は、漢という国号を名乗ることで、

東晋の正統性に泥を塗った。

 

東晋としては絶対に見過ごすことができない行為である。

 

李寿は即位後、

宮殿の造営など土木を行った。

後趙の石虎の宮殿に憧れたとされる。

 

しかし、これは純粋に、皇位継承の正統性に疑いのある

李寿が自身の権威づけを行うために行ったものだ。

 

李寿は即位五年にして343年に崩御。

その治世は、民に相当恨まれたようで、

この死も李雄らの祟りとされる。

後は李寿の子、李勢が継いだ。

 

こうして成漢(実は漢)がまとまりがつかない中、

344年に東晋の庾翼が益州を配下に攻めさせ、

巴までを支配下に置いている。

その後庾翼は345年8月に死去し、

桓温が後を継ぐことになる。

 

 

●桓温の成漢討伐

 

桓温は345年に庾翼から荊州の軍権を引き継ぐ。

翌346年11月、桓温は朝廷に成漢討伐の請願をする。

決断力と実行力のある桓温は、

荊州の軍権を握ってから2年足らずで外征を実行する。

 

成漢は混乱し、国力も疲弊していたので、チャンスであった。

しかし、気になるのは、

後趙の動きだ。石虎が攻めてこないかが目下の問題である。

成漢討伐にかかりきりになった時、後趙の石虎に荊州を突かれたら、

東晋の亡国を招きかねない。

結果がわかっているのでそう考えはしないかもしれないが、

彼我の情勢から、桓温が蜀でまごついたら

実は東晋は一貫の終わりであった。

 

 

こうしたリスクを桓温は理解しながらも、

思いっきりのいい桓温は蜀に出兵する。

 

桓温は一万の精兵を率いて、

成漢の都、成都に電撃戦を仕掛けることとした。

庾翼以来の北伐推進派、

司馬無忌(司馬八達の6番目の子孫)、周撫(周訪の子)とともに、

桓温は成漢に攻め込む。

 

346年11月 桓温は一万人の兵を引き連れ、

蜀の成漢へ侵略。

 

三国時代の蜀漢は、人口100万人の動員兵力10万人であった。

対人口比でみると10%の動員率である。

この10万人というのは総兵力であり、

各地の守備、治安のための兵士も含む。

 

蜀漢の諸葛亮はそれさえも総動員して、

北伐を戦ったのだが、

これは諸葛亮だからこそ成し得るものだ。

また攻めるときは周到な準備ができるので、

これも可能だが、

守るときはそうはいかない。

 

成漢は永安と巴を東晋に取られている。

西晋末の動乱の影響を蜀は受けていなかったとはいえ、

全くなかったということはないであろう。

 

成漢の時代に、

同じくらいの人口を擁していたとして、

永安、巴を保有していないことを考えると、

成漢は、

多く見て6万、7万人程度の動員兵力かと推測される。

 

3万人程度は、守備に必要であろうから、

首都成都周辺で動員できるのは3万人程度か。

 

それも準備してかき集めての3万人である。

兵役に就く者を選定、招集、軍隊化、装備、

こうしてようやく軍隊となる。

 

治世が乱れ、混乱している成漢では早々簡単には

兵を動員できない。

 

行政が成り立っていないし、

そもそも成漢という国家の言うことを聞くかどうかもわからない。

 

速攻であればやる意味はある。そう考えて、

桓温は電撃戦を仕掛けることを決断した。

 

〈桓温の電撃戦〉

 

江陵、永安、巴と長江を遡る。

ここまでは東晋領である。

 

ここからさらに長江を遡り、

岷江経由で成都へ向かう。

 

こうした電撃戦はとにかく見つかるのが遅ければ遅いほど良い。

見つかって、首都から遠い場所で軍勢を差し向けられてしまうと、

足止めを喰ってしまい、守りを固められてしまう。

 

そうなってしまうと折角の電撃戦の意味がなくなってしまう。

 

岷江を北上、

青衣にて成漢軍と遭遇する。

347年2月のことである。

 

成都まであと50キロ程度。

ここから北は完全な平野であるので発見されてもやむを得ない場所まで、

何とか桓温軍は入り込むことができた。

 

ここで岷江を北に渡河。

成漢軍と戦わずに、

一路成都へ進撃する。

 

347年3月、成都城近郊まで進撃、ここで

成漢軍と東晋桓温軍は決戦。

 

桓温のそばまで矢が飛んでくるなどの激戦となるも、

東晋は押し返し、勝利。

そのまま成都城へなだれ込み、

成漢の国主李勢は葭萌まで逃げるも、

ここで東晋への降伏を決断。

ここに成漢は滅んだ。