歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

成漢 桓温討伐前夜

桓温は346年に蜀にある成漢を攻撃。

翌347年には蜀から漢中までを制圧するという大殊勲を挙げる。

 

 

当時成漢は混乱をしていた。

 

●成漢 実は成国と漢国である。

 

この今の四川省にあった成漢だが、

実は成漢という国は厳密には存在しない。

 

この国は、成という国の時代と、

漢という国の時代があった。

血統が代わるので王朝も変わったのだが、

実態はほぼ変わらないので、歴史上ではまとめて

成漢と呼ぶ。

 

成漢成立の由来は下記である。

 

八王の乱の最中、

巴氐族が蜀にて独立、

成という国を作った。

 

この巴氐族は、

曹操が215年に漢中の張魯討伐を行った後、

一族集団ごと天水の略陽に連行した末裔である。

 

296年に関中において、斉万年の乱が勃発。

これにより関中周辺が飢饉に陥り、

漢中に南下した。

 

さらに蜀へ移動しようとしたが、

西晋は認めなかった。

しかしそれでも、

西晋の使者を賄賂で籠絡して、

強引に認めさせる。

 

こうして巴氐族は

蜀に入る。

 

ここで折しも八王の乱が勃発。

 

この巴氐族は蜀で自立することとなった。

304年10月のことである。

匈奴の劉淵が自立したのと同年同月である。

 

これを実行に移したのは

李雄という名君である。

華北が八王の乱、永嘉の乱と乱れる中で

蜀の成国は安定していた。

大乱が続く中、

流民の逃亡先となっているほどであった。

 

元来、蜀は中華とは別天地であった。

文化圏も異なり、

蜀漢以来の独立精神もある。

 

ちょうどこの蜀という地域の風土と、

この巴氐族を中心とした流民集団の

ニーズがマッチした。

 

この李雄が303年から334年と31年君臨。

蜀は中原の大乱とは別天地の様相を呈した。

ちょうど石勒が勃興していく時代と重なる。

 

●成国の崩壊と、漢国の建国

 

しかし李雄の死後、成国は内紛が起きる。

李雄は甥を後継者にするが、

李雄の死後、この裁定に不満を持った李雄の子が反乱。

 

この反乱が長引き、

最後は李雄の従兄弟の李寿が

338年に李雄の血筋を滅ぼし、自身が皇帝となった。

李寿は李雄とは別家なので、

宗廟も新たに創る。

 

国号をここで成から漢へと変える。

 

この時代は司馬炎のせいで、直系でなければ

王朝を継げないという考え方が流布していた。

 

直系ではない者が皇帝になるには、

王朝を変えなくてはならないという考え方があった。

成漢もこの風潮にならったのである。

 

劉淵の王朝を、

劉曜は継ぐが、国号を漢から趙へ変えたのは

具体例の一つだ。

 

本来、石虎もそうなのだが、

石虎は異民族の流儀、弱肉強食で皇帝としての正統性を

強引に押し切った。

 

しかし、李寿は石虎のようにはできない。

そもそも氐族というのは異民族といえ、

相当に漢化している異民族であった。

また、

蜀は漢人の割合が非常に高いエリアであった。

 

こうした漢人文化の考えには配慮をする必要がある。

 

東晋の影響も強く、東晋へ寝返る漢人も多い。

前々時代の、蜀漢の遺風も残っている。

 

そこで、

匈奴の劉淵は西晋に対するアンチテーゼで、

漢を名乗ったが、

最終的にはこれも踏まえて、李寿は338年漢を名乗った。

 

劉淵は蜀漢の劉禅を皇帝として宗廟に祀っている。

蜀を治める李寿は、

劉備、劉禅、劉淵の後継として、漢を名乗ったのである。

 

●漢を名乗るこの蜀の国は、東晋と完全に相入れなくなった。

 

こうして、

成から漢へ国号を変えたので、

これらは実は別王朝である。

 

しかしこれは実は対東晋施策としてはまずかった。

東晋は晋である。

晋は魏の天命を禅譲という形で受けている。

魏は後漢の天命を禅譲で受けている。

 

つまり晋、東晋は漢の天命の後継者なのに、

成漢は、漢という国号を名乗ることで、

東晋の正統性に泥を塗った。

 

東晋としては絶対に見過ごすことができない行為である。

 

李寿は即位後、

宮殿の造営など土木を行った。

後趙の石虎の宮殿に憧れたとされる。

 

しかし、これは純粋に、皇位継承の正統性に疑いのある

李寿が自身の権威づけを行うために行ったものだ。

 

李寿は即位五年にして343年に崩御。

その治世は、民に相当恨まれたようで、

この死も李雄らの祟りとされる。

後は李寿の子、李勢が継いだ。

 

こうして成漢(実は漢)がまとまりがつかない中、

344年に東晋の庾翼が益州を配下に攻めさせ、

巴までを支配下に置いている。

その後庾翼は345年8月に死去し、

桓温が後を継ぐことになる。

 

荊州の足場固めをした後に、

狙ったのが、

この蜀にある漢国(もと成国)である。