成漢を建国したのは、
巴氐族である。
氐族の一集団で、
巴出身である。
漢民族ではない、異民族の一つである。
氐族は一説には、羌族と同じ源流であると言われている。
氐族で最も有名なのは、
前秦の苻堅である。淝水の戦いで大敗し国を滅ぼした。
が、中華統一直前までに迫った皇帝である。
●巴とは。
成漢を建国したのは、
巴氐族である。
巴という地域にいた氐族のことを指す。
巴というのは、
現在の重慶のことである。
北西にある成都をを中心とした蜀と合わせて、
巴蜀と呼ばれる地域である。
新石器時代以降、
この巴蜀は同じ文化圏を構成してきた。
秦の恵文王が、
前316年に巴蜀を攻略してから、
中華エリアの一つとして編入される。
●氐族とは。
氐族というのはチベット系民族である。
五胡十六国時代の前秦は氐族が建国した国であるが、
氐族の分布は非常に広範である。
巴から西、現在のチベット自治区まで、
北は今の甘粛省、陝西省、
五胡十六国時代の言い方でいうと、
涼州、関中まで広がる。
蜀漢の姜維は、
漢中の西に当たるエリアに分布する氐族と良好な関係を結び、
度々山と谷伝いに、
涼州中部方面を頻繁に攻めている。
●●姜維
●漢民族に身近な異民族、氐族。
氐族は異民族の中でも
比較的漢化されている民族と言われている。
早々に秦に併合され、
しっかりと統治されたことにより、
漢化が進んだのだろう。
とはいえ、
民族というのは現代の概念で、
ここ100年程度の概念である。
当時の氐族に対する認識は、
高地で牧畜を行う部族ぐらいの感覚だっただろう。
それに対して、
漢民族は低地において農耕を営む部族であった。
巴蜀において、
灌漑など開発が進むと人手が必要になる。
そうして、
駆り出されたのが風習の違う人たちだった、
ぐらいの経緯である。
部族単位で動くことが基本なので、
食べ物や生活習慣が漢民族とは異なり続けたので、
別部族として定義されてきた。
こうした巴氐族が五胡十六国時代に
一躍歴史の表舞台に立つ。
●巴氐族の流浪の経緯
巴氐族は元々春秋時代から、
隴をメインに居住していた。
他地域にいた氐族は、
武都郡のものが有名である。
前漢武帝の時代、
氐人の王を滅ぼして、武都郡を設置する。
前108年のことである。
この時、ここにいた氐族が排除され、
主に涼州へ追い立てられた。
215年に曹操が漢中の張魯を攻略、
支配下に置いた。
そこで巴氐族も曹操の下につく。
その後、
219年定軍山の戦いに代表される劉備による漢中攻略戦が始まる。
曹操は援軍を引き連れ漢中に向かうも、
到着する前に守将夏侯淵は破れてしまった。
この後、成漢の祖先は関中と天水郡は略陽に一族ごと移されたとされる。
劉備と曹操の領土の境目の武都郡にいたためである。
曹操、曹丕は、
劉備および孫権領の境目にいた民を強制移住させている。
理由は、国防上の理由、人口上の理由の二つある。
戦争の度に離反するからということであるが、
著しく減った人口問題に対処する部分もあった。
●●三国時代の人口対策
だから、この劉備の漢中攻略戦の後、
曹操領と劉備領の国境となった祁山(キザン)周辺は、
後に無人となる。
三国志の各国国境というのは、
この人口対策により基本的に無人であった。
例えば、
曹操領と孫権領の境目、合肥は城の中は
軍都しての機能はあったが周囲は無人の野である。
こうして、
祁山から北に山を越えた先の略陽および関中に
巴氐族は移された。
その数は5万人に上ったとされる。
●天水に強制移住された巴氐族が蜀へ帰る。
略陽(天水郡)に移されたのが
成漢の先祖であった。
魏、その後西晋の時代と推移していく。
296年に関中において斉万年の乱が起きる。
これにより略陽周辺が飢饉となる。
ここから逃れるために漢中方面へ南下。
更に蜀方面へ移動することを西晋へ報告するも拒否されるが、
賄賂を使って認めさせる。
蜀方面へ移動したタイミングで、
300年に狭義の八王の乱が発生する。
西晋が中華王朝としての統治機能を失う。
流民も大量に発生し、巴氐族の集団に多々従っている状態であった。
また上記背景から
蜀と言うのは中原とは別の文化エリアであり、
また蜀漢以来の反西晋的な気風、元荊州人に代表される独立の気風があった。
そこで早々に
蜀は独立する。
巴氐族の首長を皇帝とした国、
成という国を創る。