歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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東晋北伐⑧ 349年石虎死去と褚裒北伐

 

●石虎の死去が中華のパワーバランスを崩壊させる。

 

349年後趙皇帝石虎死去。

事実上の簒奪ではあっても、

石勒死後16年後趙の領土を保った巨星がついに堕ちた。

これにより華北は大乱となる。

 

石虎は、

石勒と同様に後継者問題に悩まされていた。

石虎の異民族由来の弱肉強食主義は、

息子達も疑心暗鬼に囚われてしまった。

異民族由来の弱肉強食主義。

これはすなわち現代の成果主義である。

血統などに保障されないものである。

 

石虎の意向によりいつでもひっくり返される。

石虎の息子達は、石虎の息子であることから逃れることができない。

そんな人生、苦痛でしかないだろう。

息子達は、互いにいがみ合い、

父石虎に対して恐怖の念しか抱けないのである。

結局、息子同士、そして親子で争い、

石虎が信用できるのは、

幼い年端もいかない末子のみになってしまった。

結局、

幼少の石世に継がせるほかなくなってしまったのである。

 

幼少の子。

石虎にとっては、

信頼できる幼子も、

兄弟としては最も弱い存在であった。

忽ち食われる。一月足らずで廃され、殺された。

 

この石虎の息子たちの相克に勝ち残ったのは、

石虎の養孫石閔であった。

 

 

●●冉閔

 

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●冉閔の暴走

 

石閔は元々漢族である。

父の石瞻は乞活であったところ、

石勒、石虎に評価をされて養子にされた。

そうして活躍をしたのが石瞻である。

 

石瞻は劉曜との最終決戦前に戦死するが、

その子石閔は石勒、石虎の一族として生き残った。

後趙時代、最も優遇された漢族と言って良い存在である。

 

漢族なのに、石勒、石虎一族なのだ。

胡漢融合の象徴であるが、漢族から見たら、

ただの裏切りものだ。

 

そんな石閔が、石虎一族を殺戮して生き残ったのである。

石虎一族に裏切られ殺戮をした、漢族の裏切り者、石閔。

どの面下げて漢族と手を結ぶのか。

それは

「胡殺令」という、漢族に対する異民族の徹底殺戮であった。

 

それしか石閔、いや漢人の姓に戻したので、冉閔と呼ぶこの人物は

これしか生き残る道がなかったのである。

 

漢人のつまはじきものだった自分が、

漢人として漢人達に認められるには、

元々自分がいたコミュニティ、異民族を徹底的に

殺戮することでしか、自らの潔白を示せなかったのである。

ーーーー

 

石虎349年の死去が、

こうして華北を忽ちに大乱の渦へ巻き込んでいく。

冉閔の胡殺令は、

石勒、石虎によって河北へ強制移住させられてきた

異民族たちは恐慌状態となる。

動揺し、

自分たちの故郷へ帰ろうとそれぞれの族が動く。

その数は万単位の移動、

それも冉閔たちから襲われる恐れのある中の移動なので、

恐慌状態であった。

こうした状況は、

東晋にとって絶好のチャンスだった。

 

●東晋褚裒(チョホウ)の北伐は中途半端

 

司馬睿が307年に江南にやってきてから、

最大のチャンスである。

 

血筋は漢人でありながらも、

その出自は事実上の異民族、冉閔。

冉閔が魏を建国するも、その支持は広がらない。

石虎の遺児は後趙を継続するも、

これも襄国周辺の勢力に留まる。

 

異民族の移住は進んだとはいえ、

依然として漢人の人口は多い。

ここで東晋が攻め込めば、

拍手喝采して迎え入れられる可能性は非常に高い。

ここで動いたのは、

北府軍の総帥で、外戚褚裒(チョホウ)であった。

 

褚裒は石虎が349年に死去した段階で、

北伐を奏上、すぐさま北伐を実行。

刊溝経由ですぐさま泗水方面へ進軍。

下邳、彭城方面へと進む。

 

●●刊溝●

 

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しかしながら、その動員兵力は、

三万とも四万とも言われる程度であった。

三国時代の呉が、

総動員数20万人とも言われ、

揚州方面だけでも10万は動かせた。

しかしこの時の褚裒は3、4万程度しか動かせないのである。

これは、人口減もあるのだろうが、

なんと言っても、僑籍というのが大きい。

 

華北から江南に逃れてきた流民は、

僑籍に入れられ、税や賦役を免除されていた。

また、貴族の力が強く、

これら流民はそれぞれの貴族の私有民ともなっていた。

東晋皇帝に付属する民が孫権時代よりも

少なく、この程度の動員しかできない。

3、4万程度の動員数であれば、

下邳、彭城まで進み、

背後の退路を確保するためにそれぞれ兵を置いてしまえば、

もう2万程度の軍勢にしかならない。

 

 

 つまり、

北伐としては兵力不足。

突然の華北大乱にひとまず出兵したに過ぎなかった。

 

これは早々に失敗に終わる。