「五馬渡江」。
五人の西晋司馬氏の宗族が江南に渡り、東晋として西晋を復興させた。
その功績を称賛する意味で、このように呼ばれる。
しかしその実態は異なる。
●五馬渡江は誰か。
・琅邪王司馬睿 - 後の元帝
・西陽王司馬羕 - 汝南王司馬亮の第三子。
・南頓王司馬宗 - 司馬亮の第四子。
・汝南王司馬祐 - 司馬亮の孫で、直系。
前二人の甥。父司馬矩が祖父司馬亮とともに賈后の指示の下司馬瑋に殺される。
・彭城王司馬雄 - 司馬馗(季達)の玄孫。東海王司馬越の遠戚。
●「五馬」は東晋建国まもなく全員死ぬ。
元帝司馬睿以外の、
西陽王司馬羕(284年ー329年)、
南頓王司馬宗、
汝南王司馬祐、
彭城王司馬雄、
の四人は全員、蘇峻の乱の前後に死ぬ。
まず、
司馬祐が蘇峻の乱の直前の326年に死ぬ。何月かは不明。
この時叔父司馬羕は42歳なので、30歳以下の年齢だっただろう。
若死にである。
司馬宗は326年10月に反乱を起こすも鎮圧され、
処刑される。
327年10月、
蘇峻の乱が勃発。
司馬羕と司馬雄は蘇峻勢に身を投じる。
蘇峻の乱が鎮圧されると、
司馬羕と司馬雄は処刑される。
●五馬は東晋の実権者には邪魔だったのだ。
さて、この歴史の流れは無関係なのだろうか。
司馬羕が蘇峻の乱に参加したのは、
弟司馬宗が乱を起こしたことに連座して免官されていたからだ。
では、
司馬宗は何故乱を起こしたのか。
東晋明帝の崩御(325年10月)前後に庾亮と対立し、
司馬宗が中央政府から外されたことによる。
下記引用する。
「《晉書·卷五十九 列傳第二十九》:帝以宗戚屬,每容之。
及帝疾篤,宗、胤密謀為亂,亮排闥入,升禦床,流涕言之,帝始悟。
轉為驃騎將軍。胤為大宗正。宗遂怨望形於辭色。」
蘇峻の乱は、反庾亮である。
この一連の流れは全て庾亮と反庾亮の戦いである。
司馬祐が死ぬと、
子の司馬統が後を継ぐ。
しかし大叔父司馬宗の反乱に連座する。
司馬祐の後を継いで爵位を司馬統が継いでいるので、
庾亮との争いと、司馬祐の死は関係があるとは言いきれない。
それよりも、
後は何故兄を差し置いて、
弟の司馬宗が反乱を起こしたか、だ。
弟が失敗すれば兄司馬羕ら一族にも連座するのは間違いない。
一族が災いを被ることになる陰謀を一人行った。
一人暴走したとも考えられるが、
誰かにはめられたと考える方が一般的かもしれない。
●司馬雄
司馬雄は蘇峻の乱に参加し、殺されたので、
弟の司馬紘が後継となる。
司馬紘は高密王。
高密王は東海王司馬越の父司馬泰の封地であった。
司馬越は司馬泰の長子であったが、司馬泰存命中に、
賈后首謀の楊氏殲滅の際に功績を挙げ東海王に封じられていた。
そのため高密王の爵位は司馬越の三弟司馬略が継いだ。
東海王の爵位は、西晋滅亡後、
司馬睿家が保持していたが、
元の司馬越系に高密王の爵位が戻し、
これを継承することとなる。
●蘇峻の乱、その本当の意味は西晋司馬氏の無力化である。
このようにして、
実は蘇峻の乱は、単なる軍閥の争いだけではない部分が巧妙に隠されている。
蘇峻の乱は、
庾亮が蘇峻から軍権を奪うことに失敗したとするが、
庾亮は蘇峻の乱の前から最高権力者であり、
得をしているわけでもない。むしろ損をした。
これで、
得をしたのは、
蘇峻以外の生き残った軍閥である。
対象となるのは、
郗鑒(ちかん)と陶侃(とうかん)である。
しかしながら、彼ら両名とも
それぞれ339年、334年には死去し、
軍権はそれぞれ一族で占めていたわけではない。
ここはやはり瑯琊王氏の王導の意図が働いていたと考えるのが
妥当ではないか。
庾亮の権力が弱まり、
相対的に王導の力が強まった。
王敦の乱以後、抑えられてきた瑯琊王氏の力が復権したのである。
瑯琊王氏は
東晋皇帝および宗族に力を押さえつけられてきた
歴史もある。
動機は十分だ。
ここから東晋皇帝は、
簡文帝以外、東晋が滅びるまで傀儡皇帝ばかりだ。
代わりに実権を握ったのは誰か。
瑯琊王氏を筆頭にした名族たちである。
西晋司馬氏の宗族たちは、
蘇峻の乱を機にほぼ滅亡した。
東晋の皇帝は丸裸で実権がなくなったのは、
皇帝を守るべき身内がいなくなったからである。