歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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【春秋晋の年表①】覇者となる晋文公と趙盾の台頭

晋の覇者としての歴史は

前636年に晋の重耳が晋に帰国し、

晋の君主となったときから始まる。

 

19年の流浪の旅を終えた重耳は、60歳であった。

(重耳は前696年生まれ―前628年没、在位は前636年―前628年)

 

 

●前636年晋文公、60歳で即位。

 

前636年晋の文公即位。

周の内紛に介入。鎮圧する。

鄭に逃げていた襄王の王都への帰還をサポートする。

 

●前634年周襄王、晋に南陽を与える。 

 

前634年周の襄王が、晋に南陽を与える。

南陽は楚から見て、中原への入口に当たる。

のちに楚は南陽を中心に方城という一種の長城で

周囲のエリアを囲っている。

これは楚が周ー晋勢力との国境であるという認識を物語るものでもある。

話を戻すが、この時は周の所領であるので、これにより、

周の襄王が晋の文公に楚から守ってほしいという意思を明示した。

 

●前633年 晋文公、三軍創設。

 

前633年に晋の文公は三軍を創設する。

周の制度において、大国が持てる最大の軍の数が三軍である。

周に大国として認められたこと、晋として大国として中原を襲う夷狄を排除するということを

明確にしたことになる。

 

●前632年城濮の戦い 晋文公対楚成王

 

前632年城濮の戦い

城濮は、鄄城(ケンジョウ)周辺のことである。

三国志の時代の言葉で言うと、兗州にある都市である。

曹操が初期のころ持っていた都市である。

濮陽の東、定陶の北、泰山の西に存在する。

後の荊州江陵と呼ばれる郢を本拠とする楚。

城濮は魯の北であり、

中原の奥地まで楚は入り込んでいた。

時の楚王は成王である。

 

晋の文公は見事楚を撃退し、中原を守った。

覇者となった瞬間である。

晋は周から洛陽周辺にあった領地の、

黄河北岸エリアをもらう。晋の本拠地は河東だが、

中原中心地に領地を持つことになる。

 

なお、余談だが両君主の号が興味深い。

晋文公は周王朝を支えた。

その諡号は文である。

周公旦と同じ諡号である。

周公旦たろうとした晋である。

 

一方、楚成王は、成である。

これは自身が名乗る生号である。

文武成の法則で、天下を掌握するという意味が含まれる、

成である。

楚成王は、楚エリアの王であったが、

周公旦の立場を自覚する晋に敗れたため、

周王朝に侵犯はできなかった。

 

 

 

●前628年晋文公死去。

 

前628年に晋の文公は死去。

後を襄公が継ぐ。

 

●前627年殽の戦い。秦穆公の侵略を撃退。

 

前627年、

晋の文公の死去に乗じて、

秦の穆公が晋の滑(中原)に攻め込む。

晋は文公の時代に、中原エリアに都市を領するようになっていた。

秦の穆公は中原に興味があり、

反対意見を押さえて攻め込んだ。だがその帰路、

晋の襄公が殽で立ちはだかり、秦軍に勝利する。

晋の襄公は、晋の文公の遺臣にも支えられ、

国威を維持する。

 

●前621年晋襄公の死去と、孤射姑と趙盾の争い。

 

しかし、重耳が長寿だったからか、

晋の襄公は在位6年にして死去。

前621年のことである。

 

どうやら晋の襄公は急死だったようで、

後継者争いが起きる。

本来、このようなときには、公族の長老のような人が出てきて

差配するものである。

だが、晋は、重耳の代において、兄弟間が争ったことから、

そもそも親族が少ない。

また、いても太子以外の公子は国外に出されることになっていて、

力は一切与えられなかった。

 

三国志の魏は、曹丕の方針で、皇族(宗族)に

権限を著しく与えなかったが、晋の方針とその由来ともに似ている。

その代わり、権力を与えられたのは、

晋の貴族層であった。

亡き晋の襄公の後を誰に継がせるかで、

晋で内乱が起きる。

 

争いの中心は孤射姑と趙盾である。

父はそれぞれ孤偃と趙衰である。

◆孤偃と趙衰

 

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いずれも

晋の文公を最側近として支えた者であった。

この権力争いは趙盾が勝利。

幼君霊公の下、趙盾は正卿として実権を握る。

 

●前620年晋の霊公即位、前607年趙穿殺害される。

 

晋の霊公の在位は620年から前607年である。

当初は趙盾の言うことを聞いていたが長じて言うことを聞かなくなる。

趙盾を深く恨むようになり、刺客を放つところまで対立は進んだ。

趙盾は亡命しようとするが、

趙盾の従兄弟趙穿が晋の霊公を殺害。

妻は晋の襄公の娘である。

晋の霊公と義理の兄弟である。邯鄲が封地である。

 

晋国内にまだいた趙盾は晋都絳に戻った。

趙盾は従兄弟趙穿を罰しなかった。

そのため、趙盾は晋の霊公殺しを黙認したとみなされる。

趙盾は亡命しようとはしていたが、晋の国内にまだいたので、

正卿の地位にあったためである。

 

 

●前607年晋の成公即位。

 

趙盾は、周から晋の霊公の叔父で、

襄公の末子公子黒臀を迎え即位する。

晋の成公(在位 前607年―前600年)である。

晋の成公は、卿の嫡子を公族とする制度を開始する。

表向きは、公族が基本的に晋国外に出されてしまうため、

君主を輔佐するためというのが理由であった。

だが、実際は卿の勢力伸長を促す施策であった。

晋は徐々に卿が中心となって国政を動かす寡頭制の国となっていく。