●殷浩北伐の背景:
350年の褚裒(チョホウ。外戚)の北伐の失敗。
それは本格的なものではなく、「とりあえず」の出兵であったからやむを得なかった。
荊州方面の軍権を持つ桓温との連携もなしの出兵であった。
しかしながら、
華北は2年経っても鎮静化しない。
石虎の子が相争い、さらにその中から、
元石閔の、冉閔が台頭し、魏を建国する。
●河北における冉閔台頭の背景:
石虎の子と対立。
冉閔は、石虎の養子石瞻の子で、
石虎の一族であるが、
実は漢人である。
冉閔は石虎の子たちと対立したので、
漢人であることを前面に出し、異民族を排斥するという状況になる。
冉閔のやり方は大変急進的なもので、
胡殺令というものを出して、異民族を抹殺しようとする。
元異民族の冉閔が、漢人からの支持を得るためにはこれしかなかった。
しかし、こうなってくると東晋としても黙っていることはできない。
本来の漢人中華正統王朝は、東晋自身であるとする立場だ。
漢人王朝を標榜する冉閔の魏を看過できない。
こうして、北伐を実施するほかなくなる。
北伐するほかなくなる、と言うのがポイントだ。
東晋は本来は、中華正統王朝だという面子を
保つために出兵するしかないのである。
誰が、凶暴な異民族と好き好んで戦いたいか、である。
褚裒はこの時点で既に死去しており、
司馬昱により褚裒以外の人選が進められる。
ここで白羽の矢が立ったのが、殷浩である。
●積極策を取れない司馬昱は、清談の士・殷浩に頼る。
荊州の桓温は、
華北の情勢を見て、自身に北伐を任せてほしいと上奏するも、
断られた。
誰に断られたのか。
結論として、それは司馬昱である。
皇帝は幼帝であり、皇后称制だが、褚皇后は父の褚裒と同じく、
慎ましい性格だ。
権力を振るうことはない。
ということで、
宗族トップの司馬昱に実権がある。
しかし司馬昱は桓温の北伐を否決した。
それは東晋の特徴である名族社会が桓温の足を引っ張ったというのもある。
そして、司馬昱自身がそこまで大規模な軍事行動をすることに難色を示したということもある。
最高権力者司馬昱はわざわざリスクを犯してまで北伐をしたくないし、
貴族名族層の反対を押し切ってまで、桓温を使いたくもない。
しかし、北伐はせざるを得ない。
ということで、軍事経験のない殷浩を使った。
褚裒北伐に懲りもせず、再度揚州方面のみの北伐を中途半端に起こす。
この辺りが、司馬昱の限界と言えるが、決して悪気があるわけでもない。
ただ、思い切った決断ができないだけで、
これは東晋の高位層に蔓延している思考性である。
中華正統王朝を標榜する東晋は、
乱れている河北に攻め込むほかない。
名声を得ている殷浩を抜擢する、という妥協案に落ち着いた。
殷浩は、
春秋戦国時代、特に戦国時代に各国で養われていた、
緊急事態に活躍する食客のようなものである。
●352年殷浩北伐の開始:
殷浩の北伐が開始される。
・冉閔
状況としては、
華北を統一していた後趙が石虎の死後、内乱が続いていて、
352年の時点では、
冉閔が鄴を押さえ魏を建国、
石虎の子が襄国で後趙を保つも風前の灯。
なお、冉閔は漢民族である。
・鮮卑慕容部:
一方遼東では長らく後趙と対立関係にあった前燕慕容氏が、
華北へ侵入。東から後趙の後釜を狙う。
東晋の冊封を受け、王号を称していたが、
ここで皇帝に即位。
皇帝は不倶戴天なので、東晋とはこれで手切れとなる。
・氐族苻氏:
さらに、後趙に属して河北へ強制移住させられていた氐族の苻健がいち早く、
故郷の関中に帰還。そこで、天王として秦を建国。
歴史上では前秦と呼ばれる王朝を創る。
・羌族姚氏:
これに対して、氐族の苻健と故郷を同じくする羌族の姚襄は、
帰還にもたつき、苻健に先に関中を取られてしまった。
姚襄の父姚弋中は石虎の重用されており、
石虎死後の内乱に関わっていたため、もたついた。
苻健に関中を奪われたので、
羌族の行き場がなくなったのである。
ここで姚襄は、東晋に降る。
羌族の姚襄たちは正確に言うと彼らは、
隴右の出身である。
関中のさらに西である。
ここは最後まで西晋の司馬保が320年まで粘っていたエリアであった。
その後劉曜が攻めてきて従い、劉曜を石勒が滅ぼすと、
このエリアを占領しに来たのが石虎であった。
この時の羌族の長姚弋仲と石虎は馬が合い、
重用される。
このような経緯であり、後趙にも義理立てしたが、
結局元来晋になついていたこともあり、投降する。
こうした流れになる。
●漢民族優越主義の殷浩は姚襄を蔑視する。
しかしながら、そこは漢人至上主義、異民族排斥の東晋。
この姚襄をうまく扱えない。
北伐軍のトップは殷浩で、彼は現場を知らない。
降伏してきた姚襄ら羌族を先方にし、さらに殷浩はきつく当たる。
殷浩は姚襄を暗殺しようとまでする。
姚襄は最終的に殷浩および東晋から離反する。