歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

西府軍の祖・名将陶侃、羊祜、劉弘の流れを汲む荊州善政

 

王敦の乱に至るまで、

西晋以来荊州を統治していたのは、

羊祜、杜預の一時赴任を挟み、劉弘、そして陶侃である。

 

●陶侃が西晋末東晋初期の荊州を事実上管轄している。

 

さて、この当時荊州を握っていたのは、
陶侃(とうかん)である。

あまり目立たない人物だが、

中華の歴史に燦然と輝く、名将の一人に挙げられている。

 

陶侃は唐の徳宗の時代、

782年に武廟六十四将というのが

選ばれ、太公望の廟に祀られた。

歴史的な名将である。

 

名字からわかるように、陶淵明の祖先である。

陶侃は陶淵明の曽祖父。

陶侃からすれば陶淵明は曾孫(ひまご)である。

 

陶侃は、武陵蛮である。

異民族である。

武陵と言えば、武陵桃源と言われ、

現在では観光の名所だ。

いわゆる桃源郷の里である。

そもそも中華内地とは、風土・風景が異なる場所の出身である。

この陶侃が荊州の軍権を握っていた。

 

この荊州は、

陶侃に至るまで、

張昌の乱はあれども、

西晋の中でも統治が相当にしっかりしていたエリアである。

 

荊州善政の初めは、

羊祜である。

それを継いだ、

羊祜の後継者は羊祜が嘱望した劉弘。

そして劉弘が、自身が羊祜に嘱望されたように、

劉弘自身が嘱望するのは陶侃だ、として後を任せる。

途中、杜預(とよ)を挟むが、西晋時代は、

この三人、羊祜、劉弘、陶侃が荊州を統治していたと見てよい。

 

●羊祜の善政が荊州を東晋に残した。

 

羊祜は、

司馬師の正妻羊氏の弟で、

泰山羊氏の出身である。

 

西晋成立の功臣であり、当時の名族の一つで、

その力を司馬師が欲したから正妻に迎えていた。

しかし、羊祜は西晋成立後、

泰始律令の制定に携わった後、

都督荊州諸軍事に転任する。

大臣が地方自治体の長に転任した感覚で、

実は左遷である。

それは、

時の権力者賈充に嫌われたためである。

賈充は司馬炎が司馬昭の後継者となれた最大の功労者だからである。

●●賈充とは

 

www.rekishinoshinzui.com

 

 

賈充は権力を忠実に志向する。

一方、

羊祜は漢人名族の高い教養人としての道を

忠実に歩む。真っ当なことを真っ当に言い、実行するタイプだ。

 

お互いが折りあえるはずもなかった。

後に羊祜は

漢人教養人として賈充のことを弁護して、

賈充に感謝されるが、

感謝される時点で、両者は折りあえていない。

羊祜からすれば、天下のために賈充を守っただけである。

このような、硬骨漢で、徳のある羊祜が荊州に赴任した。

 

 

荊州の民に恤民(じゅつみん)の心で接した。

つまり、民に優しく、民をいたわり、

民生の充実に努めたということである。

広大な土地を開墾、10年の蓄えを得たとされる。

戦国時代の西門君(西門豹)が鄴を開墾したエピソードを想起させる。

相当な名行政官であったのだろう。

そして、

羊祜は、天下安寧のために、呉の征伐を狙う。

荊州の軍事を統括するということは、

対呉戦略も担うので、この権限がある。

羊祜は自身の側近、王濬を益州刺史に送り込み、

民生の安定と、

蜀のたくさんの木材を活かして、造船に励ませる。

 

羊祜は、荊州と、益州の統治をし、国力、戦力の充実を実現。

時の皇帝世祖武帝司馬炎に孫呉征伐を奏上するが、

賈充に撥ね付けられる。

賈充は、権力バランスに用心している。

羊祜が孫呉征伐を成功させるとまずいのだ。

なお、賈充のこのような側面ばかりみると、

散々な人物だが、

かなりエッジの立った人物で、

苦労人でもある。

リンクを貼っておくので、

興味を持って頂けると、とても面白い。

●●賈充についての過去記事

 

www.rekishinoshinzui.com

www.rekishinoshinzui.com

www.rekishinoshinzui.com

www.rekishinoshinzui.com

www.rekishinoshinzui.com

www.rekishinoshinzui.com

www.rekishinoshinzui.com

www.rekishinoshinzui.com

www.rekishinoshinzui.com

www.rekishinoshinzui.com

www.rekishinoshinzui.com

www.rekishinoshinzui.com

www.rekishinoshinzui.com

 

 

羊祜は天下視点で、

孫呉征伐を再三奏上するも叶わず、

死去する。278年のことである。

荊州の民は、羊祜を死を非常に悲しんだ。

荊州を確実に大過なく守りきり、

農地を開拓し、民の生活を安定させた。

嘆き悲しむのは当然である。

羊祜の死後、荊州襄陽の民が、彼を偲んで、

石碑を建立する。

 

羊祜がしばしば登っていた山の上に、

建てた。羊公碑と言われる。

 

後に羊祜に推薦され、

後任の都督荊州諸軍事となった杜預もここを訪ねている。

春秋左氏伝の注釈者として有名な杜預は文才豊かである。

その杜預がこの石碑のことを「堕涙碑」と称した。

 

非常に有名な話で、唐の李白も詩に歌っている。

「君不見晋朝羊公一片石」(襄陽歌)

→「見ずや 晋朝羊公の一片の石」

 

李白はこの歌で、羊祜の石碑は朽ちて読めなくなってしまったので、

涙も出ないよ、と詠っているので、良い意味では使っていない。

しかし、言えるのは、400年経っても襄陽の名所であることは

間違いがない。羊祜は襄陽の民に愛されていたのである。

 

さて、次代の杜預により、孫呉討伐は成就した。

杜預は自家は武を得意としておらずということで

早々に都督を辞める。

 

その後は、西晋の宗族重視政策により、

都督荊州諸軍事は宗族がなる。

ざっくりと捉えると、

杜預の一時赴任の後は、宗族統治、

その後、

劉弘が荊州を統治。

 

●八王の乱を劉弘と陶侃が乗り切る。

 

劉弘が歴史上に出てくるのは、

八王の乱の最中である。

●●八王の乱が終焉した307年●●

八王の乱で西晋の統治が弱まり、

荊州では反乱が起きた。

 

303年5月張昌の乱である。

張昌は義陽蛮である。異民族だ。

 

劉弘はこのとき荊州刺史であった。

劉弘は元々羊祜の参軍である。

参軍とは、府を開くことができる将軍に属する幕僚である。

開府出来る高位の将軍、場合によっては丞相なども開府する。

その将軍府、丞相府に属する幕僚が参軍である。

最側近と考えてよい。

劉弘は羊祜の最側近であった。

 

この反乱を304年8月に劉弘が鎮圧した。

陶侃は司馬として劉弘の張昌鎮圧をサポートした。

 

司馬は、時代により、意味がころころ変わるが、

この場合は、都督荊州諸軍事を担う将軍の府における、

司馬という意味である。

司馬は、将軍府に属する幕僚で、軍事を司る。

劉弘は306年8月に死去。

 

なお劉弘の墓が現代において出土している。

このタイミングで、司馬越が八王の乱を勝ち切る。

 

●陶侃、西晋最高権力者司馬越の属官となる。

 

劉弘が死んだ、

306年8月に司馬越は太傅になっている。

この後の司馬越の論功行賞を行うが、

その中で、

陶侃は司馬越の参軍となっている。

参軍は司馬越直属の軍事官僚である。

多分すれ違いと思われるが、あの王導も、

このポジションについている。

この司馬越の参軍というポジションが高いものだということが

窺い知れる。

 

劉弘の推薦もあったのだろう。

 

西晋という時代は、 

武陵蛮で異民族の陶侃が

荊州刺史や都督諸軍事になれる時代ではない。

とはいえ、

その西晋最高権力者司馬越の参軍になれるだけ、

相当なものである。

 

各地の掌握政略の一環としてだと思われるが、

司馬越が陶侃自身の力を認めたことに他ならない。

 

羊祜、劉弘の流れを陶侃が汲んでいたのも事実であり、

そのあたりも考慮したのだろう。

司馬越が大した面識もない、

武陵蛮の陶侃をわざわざ自身の参軍にするのは、

彼らの流れを汲んでいるからである。

 

このようにして、

荊州の軍権は事実上陶侃が継承した。

とはいえ、八王の乱を経て、各地で反乱が起きている。

変わらず中央が不安定なので、荊州の全体をを握っているわけではない。

荊州でも各地で反乱が起きている。

 

このような状況で、荊州に向かってくるのが王敦である。