歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

王敦の荊州攻略、冷徹な政治家としての処置。

瑯琊王氏の王敦。

結論は東晋建国の元勲である。

東晋の初期に乱を起こした人物としかフォーカスされないが、

それは後世の瑯琊王氏が自己保身をするためである。

 

 

王導は、江南土着勢力をうまく分断して、

旧来の呉郡四姓と呼ばれる古来からの名族を取り込み、

東晋をまとめたとされる。

しかし、これはむしろ従兄の王敦こそが

行なった手法である。

江州(旧九江郡)攻略、荊州攻略から、

王敦をやり口を見ていきたい。

 

 

●荊州攻略

 

 

307年の段階で、

陶侃は司馬越の参軍として、

荊州を管轄していた。

 

一方、

307年に江南に、

司馬睿、王敦、王導が赴任する。

司馬越の支援がないまま、

司馬睿らは、苦戦しつつ、江南をまとめる。

 

ここで王敦が出てくる。

長江を遡って、江南の安全保障を確保しようとする。

建康を中心とした江南は、

長江の上流に当たる、

荊州から常に攻め込まれる危険性を抱えている。

ここを押さえないと、安全保障を確保できない。

 

一方で、

北へ長江を跨いで攻め込むよりも、

長江沿いに昇った方が攻め込みやすいという部分もある。

 

●王敦、荊州へ向かう。

 

王敦は長江中流域方面の攻略を開始。

王敦は司馬睿の指示で、

長江をさかのぼり、各地を取り込んでいく。

しかし江州刺史華軼(かいつ)は司馬睿に従わなかった。

(華軼は曹魏の太尉華歆(かきん)の曾孫(ひまご)である。)

というより、

頭の固い人物で、

皇帝の詔書ではないと従わないというスタンスであった。

 

大乱に際して柔軟に動いてもらえず、

司馬睿・王導・王敦は困った。

江州とは、昔で言う九江郡のことで、

建業から見ると、

長江をさかのぼって荊州にたどりつくためには、

どうしてもここを通らなくてはならない。

 

九江の先に、荊州夏口(今の武漢市武昌)がある。

陶侃は夏口にいる。

華軼の奏上で、陶侃は夏口という重要拠点に

駐屯しているが、

後に不和となる。

この時点では、

陶侃は司馬越―司馬睿派である。

また、江州を押さえないと、

建業を中心とした江南を掌握できない。

建業の安全保障上も問題なのである。

 

業を煮やした、司馬睿サイドは、

王敦を派遣。

王敦は長江中流域方面の攻略を開始。

江州刺史の華軼(カイツ)を打倒、

荊州の流賊杜弢(トトウ)の乱を鎮圧。

 

但し軍事力の大半は、陶侃や周訪に依存。

荊州攻略が済み、王敦は武昌に駐屯。

 

●陶侃の左遷と周訪の憤死

 

荊州方面が

落ち着くと王敦はまずは陶侃を広州に左遷。

荊州の軍権から引き離す。313年のことである。

王敦にとって、荊州を自身の手に収めるには、

陶侃は邪魔なのである。

 

これに反発して、

陶侃の旧配下が、反乱を起こすと、

周訪を使って鎮圧。

さらにこちらが今度は落ち着くと、

今度は周訪を冷遇。

王敦は取れるものだけ取ったということだ。

王敦は非常に冷徹な政治家と言える。

周訪はこれにより320年に憤死。

 

このように、

王敦は地場で軍権を握っている者を利用するだけ利用。

その後排除した。

陶侃は、

反乱の続く広州へと赴任する。

王敦への印象は非常に悪い。

 

だが、

これは

王敦を悪く言いすぎではないかと思われる。

313年は西晋が311年に事実上滅亡。

晋王朝という存在がない、

空白期間で

自分たちのことは自分たちで守らなくてはいけない時期である。

江南建業からして荊州は上流に当たり、

確実に押さえておかなくてはならないエリア。

王導が巧みな調略で江南を押さえたことを考えると、

王敦が直に荊州を押さえるというのは規定路線である。

 

後々の活躍を考えると

私も陶侃に同情的なので、王敦を悪く言いたくなる。

だが、我々のそのような思いが、

ここで王敦を悪く言わせていると私は考えている。

 

さて、王敦は自身軍勢を率いながら、

荊州を押さえた。

建業および江南エリアの安全保障上、

長江上流の荊州を押さえたことは非常に大きな意味を持つ。

河に流れていつでもせめて来られるかもというのは、

 

非常に大きな脅威である。

建業からすれば、長江北岸の寿春を押さえるよりも重要である。

建業は長江が守ってくれる。

建業及び江南の安全はこれで確保された。

 

司馬睿の勢力が、孫権の呉と同じ勢力圏を

得た段階で、安全保障が確保できたのである。