歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

王敦の言い分「東晋は私が創った。」

王敦は事実上の東晋建国者である。

しかしそれは後世の人達により歪められたため見えてこない。

王導ではなく、王敦が東晋を創ったのである。

 

 

王敦は、

319年までかかって荊州全域を掌握した。

 

南方の交州は王敦が左遷したとはいえ、

司馬越の属官から王敦自身が引き上げた陶侃が治めている。

 

この間、荊州の流賊杜曾が

荊州北部の襄陽で割拠した際、

長安の愍帝が任命した荊州刺史を迎え入れていたこともあった。

 

そこを王敦は陶侃に攻めさせていたりする。

主筋であるはずの西晋愍帝の代官を攻撃しているわけである。

 

 

既に王敦はグレーな行動を取っていた。 

 

●魅力的な荊州、王敦の野心を煽るのに充分

 

 

さて、王敦の本拠地は荊州である。

王敦は荊州を掌握した。武昌に駐屯している。

孫権も一時はここを本拠地としていた。

荊州は、

非常に魅力的なエリアである。

春秋戦国時代に楚が割拠し得たように、

肥沃な大地が広がり、

非常に守りやすい土地である。

 

江陵を中心に、

南は長江と雲夢沢(湖)、

東は夏口、

西は夷陵、

北は襄陽、

さらにその北の南陽を確保してしまえば、

閉じこもれる。

 

南の長沙を押さえると、

南方の広州などと交易もできる。

秦の始皇帝が開鑿した霊渠という運河を通じて

行える。

それを王敦は王導とともに調略して確保した江南勢力を率いて、

獲得したのである。

 

しかし、王敦の立場は不安定である。

西晋皇帝は形こそあれ、実態はないに等しい。

それは司馬睿も王導も同じであるが、

荊州で一人王敦が統治している状況は

自身の立場を確実にするには非常に魅力的である。

 

今は司馬睿の下で動いていて、

権限もあるが、

それは司馬睿の意向で

簡単に荊州から外されるというリスクも背負っている。

 

しかし、

司馬睿自身はただ建業に居座るだけで何もしていない。

 

王敦には、東晋成立は自身が成し得たと考えている。

王敦が荊州を事実上の王として保持しているこのタイミングで

先々のことを考えなくてはならない。

 

江南と荊州をまとめたのはは王敦自身と族弟王導と言われている。

 

●王敦の方が王導より格上。

 

江南の調略は王導の手によるとされているが、

私は、

実は王敦の方がメインだったのではないかと考えている。

そもそも、

2人は10歳の年齢差があり、王敦の方が年上である。

さらに、

王敦は317年に

司馬睿が晋王についたときに、大将軍となっている。

西晋にとって大将軍は、

司馬師、司馬昭、司馬炎が魏末になった官職で、

非常に大きな意味を持つ。

日本風に言うと、人臣の最高位なのである。

 

王敦は、

司馬師、司馬昭、司馬炎という後に皇帝になった人物たちに

準じるということを暗に示している。

一方、王導は驃騎大将軍に任じられた。

大将軍が上位で、驃騎大将軍はその下だ。

 

ここからもわかるように、

王敦よりも王導の方が格が上なのだ。

調略も王導ではなく、王敦がメインで行ったが、

王敦の乱で王敦は病死したため、

その功績を全て王導に持ってきたというのが

真実だと私は考えている。

それは瑯琊王氏の保身でもあった。

乱を起こした王敦は叩くしかいない。

 

似たようなことは潁川荀氏も行なっていて、

曹操に協力した荀彧を曹操に自殺を命じられたことに

した、ことと同じである。

 

●●荀彧

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●王敦のエージェント、王導が左遷されて王敦は司馬睿排除を決めた。

 

 

王敦の乱のきっかけは、

王導が司馬睿により遠ざけられたためである。

王敦は荊州にあったが、

王導が中央建業にいて朝廷を掌握していたから、

安心していられた。

しかし、

司馬睿が王敦、王導ら瑯琊王氏排斥の一環として、

王導を朝廷から外したことは大きな意味を持つ。

 

私も含めて我々が不思議に思うのは、

王敦の乱後も王導が生き残ることだ。

本来なら、殺されてもおかしくない。

後世伝え聞く話のように王導がメインなのであれば、

この左遷からの王敦の乱も王導が主導であるはずだ。

 

しかし、王導は王敦の乱に積極的関与しておらず、

蘇峻の乱後になるが、王導は復権する。

 

司馬睿の瑯琊王氏排斥のメインターゲットが

王導ではないのである。

それは王敦でそもそも王敦こそ瑯琊王氏のメインだったのだ。

司馬睿は、王敦がトップの瑯琊王氏の排斥を画策した。

司馬睿はただ権威があるだけで、何の力もないことに気付いた。

司馬睿は、

ある程度情勢が落ち着いてきたことにより、

自身の状況に不安を覚えたのだろう。

よくよく考えてみれば、

この時の司馬睿は、

八王の乱当時、およびその後の

恵帝や懐帝と同じ状況だった。

誰かに担がれなければ、皇帝として成り立たない。

八王の乱を司馬越の下で戦ってきた司馬睿が、

今度は自分自身が

同じ状況に置かれているということに気付かないはずがない。

司馬睿は、

王敦の中央政界のエージェント王導を外して、

側近政治を志向する。

それは本来の晋としての在り方とは異なるが、

皇帝親政を今更目指す。これが王敦の乱のきっかけになる、

 

●王敦の言い分「東晋を創ったのは俺だ」

 

このように王敦・王導の瑯琊王氏を排除しようとした東晋元帝司馬睿。

そもそも司馬睿は西晋であれば皇帝を継げる資格はなかった。

 

司馬懿の四男で

司馬師・司馬昭の異母弟である司馬伷の孫にあたる司馬睿。

 

これだけ見ると、

司馬睿が東晋皇帝となったと言われても納得してしまう。

 

しかし、西晋において天命が下りたのは、司馬昭である。

平たく言うと、

その意味が廟号太祖に含まれている。これは高祖劉邦と同じである。

そして、それを継ぐのが司馬炎である。

しかし司馬炎の廟号は世祖である。

これは光武帝と同じであり、さらに中興の天命が下りたことを意味する。

当然だが、

後漢は光武帝の血筋しか皇帝を継げない。

高祖劉邦の血筋でも継げない。

だから前漢の皇帝の子孫は基本もう皇帝にはなれなかった。

それが司馬炎の廟号世祖の意味に含まれている。

司馬炎の血筋だけが西晋、というより晋皇帝になれる。

司馬睿が皇帝になれたのは司馬炎の血筋が絶えたからである。

本来は継げない。司馬睿の立場は、

前漢は呉楚七国の乱で反乱した高祖劉邦の

兄の子のレベルと変わらない。その程度の正統性である。

やむを得ずということで、司馬睿が皇帝に立った。

ある程度力で勝ち取った部分があるのだ。正統性がないのだから。

 

●●司馬炎の血筋のみ皇帝を継げる。

 

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では、

それを支えたのは、誰なのか。

王敦なのである。

司馬睿に足りない正統性を実は王敦は補完しているのである。

それなのに、司馬睿は王敦を排除しようとした。

腹が立つのも当然である。

 

 

●実は武帝司馬炎の婿、王敦

 

さらに実は見逃されがちな事実がある。

王敦は西晋世祖武帝司馬炎の婿なのだ。

襄城公主の降嫁を受けている。

中華式の言い方だと、駙馬である。

襄城公主の母は不明である。

司馬炎はディオニュソス的な生き方をしていたので、

こういうことはよくある。

●●●司馬炎のディオニュソス的生き方

 

 

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一言で言うと、快楽主義ということだ。

歴史的な皇帝司馬炎は、徳を修めたうえで、

個人の快楽を追及してこの世を楽しむということである。

それは、八王の乱主役の一人司馬穎のような存在も産む。

この司馬炎の生き方は、八王の乱の遠因の一つである。

襄城公主もそのような庶出の一人だろうが、

とはいえ司馬炎という皇帝の娘である。

それはある意味、司馬睿よりも、王敦の方が武帝司馬炎に

近いとも言える。

 

王敦は司馬炎の婿なのだから、司馬炎家の一員なのだ。

別家ではない。

現代の感覚で言えば、

パーティを催す際に、娘の旦那さんを呼ぶことはあるだろう。

 

しかし、従兄弟の子供を呼ぶ、というのは

仲が良くなければあり得ないだろう。

西晋は司馬炎が中心の王朝である。

司馬炎視点から見れば、王敦の方が近い。

その王敦が司馬睿の皇帝即位を支持するというのは、

正統性の補完になる。

 

司馬炎の家しか皇帝になれない晋。

その家が絶えた。

その時に正統性があるのは、従兄弟の息子か、

それとも娘の婿か。

 

これは難しいところだと思う。

別姓なので、王敦は晋は継げないが、

将来の皇帝への道の根拠にはなり得る。

 

王敦は王敦の乱のときに皇位を狙ったとされるが、

それはわからないと私は思う。

だが、狙う理由、大義名分実はあるということだ。

 

むしろ建業城内まで乱入したのに、

皇位を簒奪しなかった時点では、

王敦は皇帝になるつもりはなかったと私は考えている。

これは王敦の乱の第一回目のことである。

第二回目の時点では司馬睿も既に世になく、

皇帝を狙っていた。

(司馬睿の後継、明帝を鮮卑野郎と罵っている。)

 

●王敦が皇帝を望む充分な理由がある。

 

東晋を事実上建国した瑯琊王氏。

その族長は、王敦である。王導は王敦を支えた。

晋の宗族司馬睿はただ担ぎ上げられただけであった。

 

これが東晋建国の結論である。

 

しかし、司馬睿は自身の立場に不安を覚え、

瑯琊王氏の排斥に動く。

それに対し、王敦・王導が江南で作り上げた地盤は強固で、

返り討ちにされる。

失意のうちに司馬睿は死去する。

時の最高権力者王敦が司馬睿に贈った諡号は、

元帝である。

曹魏最後の皇帝と同じ諡号である。

その野心は明確だ。

 

司馬睿を最後の皇帝にして、

王敦は皇帝になる野心を明確にした。