歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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東晋 庾亮の時代 329年から345年まで

庾亮は、329年に東晋を沈静化させた。

各勢力のバランスオブパワーが確立したのである。

 

 

 

東晋は、

司馬睿の五馬渡江と言われる、

307年の江南建業への赴任から歴史が始まる。

 

新興江南土着勢力の排除、

王敦の排除、(王敦の乱)

蘇峻の排除、(蘇峻の乱)

329年に蘇峻の乱が鎮圧されて、

ようやく東晋は落ち着いた。

 

足掛け22年の大乱であった。

 

この22年間、

華北では、

匈奴漢の内乱や石勒・劉曜の対立などが続き、

東晋としては内部で揉めることができたとも言える。

 

王敦や蘇峻は東晋のために戦った

建国の元勲と言って良い存在にも関わらず、

排除しなくては王朝が成り立たないところに、

東晋の深い闇を感じる。

 

●東晋大乱を生き残った5つの勢力

 

東晋の内紛劇の結果、

 

王導、

呉郡四姓、

北府軍、

西府軍、

外戚、

の五者が生き残った。

皇帝は幼帝成帝。

321年生まれで、329年時点では8歳である。

父東晋明帝は325年に崩御、成帝が即位する。

生母は父東晋明帝の皇后、庾文君。

生母庾文君も328年に亡くなっていた。

 

この8歳の幼帝を

庾文君の兄で外戚の庾亮(ゆりょう)が支えることになる。

 

●北来貴族の庾亮は、皇帝や瑯琊王氏に好かれる。

 

庾亮は、289年生まれ、340年に没する。

 

父の庾琛(ゆしん)は、

建威将軍兼会稽太守に任じられ、江南にやってきた。

庾亮も父に従い、会稽に来ている。

庾亮は司馬越から属官になるよう要請されいた。

しかしそれを断って父に従って会稽に移っている。

 

司馬睿よりも先に江南に来ていたようだ。

その後司馬睿が江南に来た時、

司馬睿は庾亮の高名を聞いて招聘した。

 

司馬睿は庾亮を気に入り、

息子の司馬紹(後の東晋明帝)に庾亮の妹を娶せるよう指示をした。

このとき庾亮は固辞しているが、

司馬睿は許さず妹の参内となった。

 

妹の婚儀の差配を庾亮がしていることから、

この時点で父庾琛は死去し、庾亮が後を継いでいたと思われる。

 

 

元帝司馬睿は、法家主義を信奉し始めていた。

西晋の徳治主義を反面教師として、

考えるところがあったのだろう。

息子司馬紹に韓非子を授けたりしている。

 

一方庾亮は韓非子などの法家思想が今必要と考えていて、

その点で後の明帝、司馬紹と馬があった。

 

庾氏というのは元々法家思想を学問としていた、

硬骨漢の家である。

その中でも、

西晋初の庾純のエピソードが有名である。

 

庾純は、

時の権力者賈充に向かって、

高貴郷公はどこだ?と言い放った人物である。

賈充が敵対する任愷派の庾純が属していたことが原因ではあるが、

陳寿の三国志からも抹消された、

当時のタブー、賈充の曹髦殺しのことを指している。

 

酒の席とは言え、手段を選ばない賈充を面と向かって

批判したのは、死をも恐れぬ行為である。

庾純は280年代に死去していると思われ、

289年生まれの庾亮からすると、

ひと世代、もしくはふた世代前の人物である。

同族だが、関係はわからない。

だが、このような庾一族の風土を庾亮が受け継いでいることは

大いにあり得る。

 

また、庾亮は、

王敦の推挙で中領軍に任じられている。

中領軍は、宮城の近衛兵のトップで、

過去には司馬師や賈充がついた重要なポストである。

 

庾亮が、司馬睿ら宗族司馬氏、

東晋の事実上の建国者王敦ら瑯琊王氏に

相当に気に入られていたことは間違いない。

 

●法家思想に長じる庾亮は明帝からの高い信用を得る。

 

元帝司馬睿と王敦の争いが、

322年第一次王敦の乱へ発展。

 

元帝司馬睿は乱に破れ、

失意のうちに322年11月に崩御する。

後を継いだのは、司馬紹、後に明帝と呼ばれる。

 

明帝は

義理の兄にあたる、庾亮とは、

法家思想の点からも、方向性がマッチしていた。

法家思想というのは、一言で言うと、

皇帝専制強化である。

父元帝司馬睿以来のその実現のために、

明帝は即位後、庾亮を中書監に任じた。

中書監は、皇帝の詔を統括するポジションで、

皇帝専制時には最高権力者となる。

 

時は王敦が元帝司馬睿から排除されかけて、

逆に王敦が司馬睿を排除した時代である。

時の最高権力者であるの王敦に対して、

皇帝専制を目指して、

明帝と庾亮は早くも挑戦した。

 

王敦はこれに対して当然激怒し、

いよいよ帝位を窺う。

 

324年に第二次王敦の乱が起きる。

乱の最中、

王敦は病に倒れ、

明帝サイドは、蘇峻や陶侃ら、後の

北府軍、西府軍の元になる軍隊を使って、乱を鎮圧させた。

 

明帝の皇帝完全親政がここになる。

しかし明帝は、

不運なことに325年に崩御。

 

庾亮の甥にあたる、成帝(321年ー342年)が即位。

庾亮の妹、庾文君が摂政となる。

 

●幼帝の下、庾亮自身が法家政治を実行、結果として蘇峻の乱が起きる。

 

この時点で庾亮が外戚として、

中暑監として、最高権力者の地位を確立させる。

 

元帝、明帝が皇帝専制を志向していたこともあり、

王敦の乱を鎮圧したことで、その路線はできつつあった。

しかし、明帝の早すぎる死は幼帝を生む。

4歳の幼帝では何もできないので、母の庾太后が摂政となり、

その補佐として庾亮が実権者となる。

 

この時の状況は、庾亮にとっては非常に動きやすい時期であった。

 

この時、外朝のトップは司徒の王導で、

庾亮に何の口も挟まなかった。

 

王導は王敦を売って、何とか王敦の乱を生き残ったが、

瑯琊王氏の勢力の後退はやむを得なかった。

この取引を実行できたことに、庾亮は関わっているはずであり、

王導はこれ以上手出しをできない。

 

明帝の崩御により、計画は狂ったが、

庾亮により、皇帝専制、法家政治の強化へと進む。

 

宗族や陶侃や祖約といった軍閥を排除し始める。

 

蘇峻に至っては、

自力で軍隊を作り華北で戦ってきたのに、その軍隊から

引き離そうとした。

この地上にある軍隊は全て皇帝の軍隊であるという理屈である。

 

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蘇峻からすれば不甲斐ない東晋の高位層に、

身も心も捧げる必要はない。

 

これで、

蘇峻の乱を引き起こす。

 

蘇峻勢は、建康を落とすなど各地で優勢だったが、

 

最後は、庾亮自身が陶侃に頭を下げ、

3年に渡る蘇峻の乱を鎮圧した。

 

●雨降って地固まる。庾亮の権力完全掌握。

 

東晋としては失策だったかもしれないが、

蘇峻の乱により、

東晋の権力は結局庾亮に集まって、落ち着きを見せることになった。

 

庾亮は、これで、

皇帝、外朝(政府と呼んでもいい)、軍事を

押さえ切った。

 

蘇峻の乱により、庾亮の妹、庾太妃と実子を亡くしているので、

意図的ではなかっただろう。

 

結果として庾亮の全権掌握は成った。

庾亮は弟の庾冰、庾翼と協力し、勢力を保つ。

庾亮自身は、蘇峻の乱を引き起こした責任を取った形にして、

中央政府からは退いていた。

とは言え庾氏全員で退いたわけでもない。

中央は弟たちに任せ、

蕪湖に出鎮。

都督豫州・揚州諸軍事としての出鎮、駐屯

である。

名目の最高権力者としては、

退いていたとは言え、

強い軍権は持ち続け、実態は変わらない。

 

この図式は、

王敦が武昌で荊州と軍権を押さえ、

中央政府を従弟王導に任せたやり方と同じである。

 

庾亮は弟庾冰を中央に置いていた。

 

庾亮は、

積極的に軍事行動を起こすわけではない。

当面は逼塞するのが庾亮のスタンスだ。

最高権力者とはいえ、

蘇峻の乱の失敗による信用失墜は大きい。

庾亮は世論の攻撃を受けないよう、控えめに振る舞う。

 

●庾亮、王敦と同じポジションへつくも、何も成し遂げられずに死去。

 


334年に陶侃が死去すると、
都督六州諸軍事につき、武昌へ出鎮。

 

王敦と同様のポジションにつく。

軍権だけは、
外戚としての権力の裏付けとして必要であった。

 

ここから、
庾亮は、北伐を計画し始める。

 

華北の情勢は東晋にとってチャンスであった。

華北は石勒が後趙を建国して統一をしたが。

333年に死去。

 

その後の内紛を経て、石虎が継いでいた。

石虎は、

慕容部への対抗のため、北に目が向いていた。

慕容部は東晋の冊封を受けているので、

東晋の政略が功を奏しているのである。

 

南から攻めるのは、慕容部への支援にもなる。

 

しかし、いち早く庾亮の動きを察知した石虎は、

石閔を派遣して攻撃。

東晋深く攻め込まれ、庾亮の北伐計画は頓挫する。

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340年に庾亮は死去。その後は、

庾冰、庾翼が庾亮の後を継ぐが、

庾翼が345年に死去すると、

武昌の軍権は、桓温が担うことになる。

桓温は庾亮が評価して、世に出た人物であった。