歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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桓温は意図的に父の仇討ちで名を挙げる。

345年に桓温が西府軍を掌握してから、

桓温が死ぬ373年までは、桓温の時代である。

 

 

世に出るきっかけは、父の仇討ちである。

 

●東晋の救世主、桓温。

 

桓温は東晋のスターであった。

人心掌握に長けていて、

そのためには政治も軍事も全て活用した。

 

後世にその印象は強い。

私個人としても、元々好きな存在である。

東晋で最も知名度が高い人物ではないかと思う。

 

 

手詰まり感のあった東晋にとって、

桓温の存在は非常に大きかった。

東晋は内紛続きで、

各勢力がそれぞれまとまらない状態が続いていた。

 

東晋はその王朝としての在り方から、

北伐は国是である。

元来は洛陽が帝都で、中華王朝として、

華北を支配しないというのはあり得ない。

絶対に成し遂げなくてはならないのが、北伐。

失地回復して、以前の中華正統王朝としての復権を目指す。

 

それが東晋の成すべき事であった。

しかし、

具体的な手段・計画を持ちえない。

 

しかし桓温はそれをやってのけたのである。

停滞、低迷、鬱屈し、

手詰まり感のあった、

東晋社会に対して、

桓温が与えた影響は計り知れなかった。

 

●桓温の出自

 

桓温の祖先を辿ると、後漢初の桓榮に当たる。

桓榮は春秋五覇斉の桓公の末裔と言う。

 

譙に本籍を置き、譙国桓氏と呼ばれる。

桓榮から見て、桓温は七世の子孫である。

一族に曹魏の桓範がいる。

 

桓範は九卿の大司農まで昇っていたが、

249年に司馬懿が起こした正始政変で、

曹爽サイドにつき、族滅にあった。

その系統は当然絶えたが、別系統は残っており、

その末裔が桓温である。

 

父の桓彝(276年―328年)は

西晋恵帝の時代に官に就く。

その後、司馬睿の南遷にしたがい、

江南に赴いた。

 

司馬睿の属官としてのキャリアを積む。

 

王敦の乱で功績があり、

明帝の時に散騎常侍にまで昇る。

散騎常侍は、皇帝の側近である。

侍中府に属し、詔の扱いや、

皇帝の命令を伝えたりする

ポジションである。

 

しかしながら、蘇峻の乱の最中、

戦死する。

 

●桓温が名を挙げた、父の仇討ち

 

桓温の父桓彝は、

蘇峻の乱という東晋の内紛で、命を落とした。

 

●庾亮と蘇峻の乱

 

乱を起こした蘇峻にも言い分は十分にあるわけで、

この蘇峻の乱自体は、乱というよりはただの仲間割れである。

 

いわば、

同士討ちで後世の私から見ると、

何とも複雑な思いが去来する。

元来は味方同士だったのだ。

 

それが庾亮の締め付けで、

蘇峻の乱と相成った。

蘇峻軍は建康に入城するほどだったので、

東晋を大きく揺るがす、大乱である。


そのとばっちりで、桓彝は死亡した。

 

●蘇峻の乱で死んだ父桓彝

 

庾亮ら政権幹部は、

蘇峻の乱が

逆族によるものでけしからんとするだろう。

 

しかし、内乱には事情もある。

乱の後、

蘇峻側に参加した事情を抱える者たちも、

東晋で生存している。

 

東晋の仲間割れが蘇峻の乱で、

全てを処罰することはできないからだ。

 

にも関わらず、

桓温はこうした事情に配慮しない。

仇討ちを計画する。


まず父桓彝を殺した者を探し出す。

江播という者である。

突き止めた後数年経ち、

江播が亡くなった。

 

その葬儀の時、桓温は弔問と偽って、訪問、

江播の息子三人を殺害して仇を晴らすという話だ。

この仇討ちは当時の人々から、称賛を受けたという。

 

何とも清々しい話なのだろう。

鬱屈した時代には、スカッとする話だ。

このようなことをする者がいないから話題になる。

桓温は逆を突いた。

桓温は輿論を分析したか、

それとも素でやったか、ということになる。

 


私は

これは仇討ちにかこつけて、

桓温が名声を上げようとしたと見える。

 

後漢から、評価の基準は孝廉である。

その人物の孝道と清廉さが

人物評価のほぼすべてを占めていた。

 

村社会で、中央に推挙する長老たちに認められれば、

これはどうにでも後付けできる。

名族の子弟は、父やその恩顧を被った者たちが推薦してくれるので、

官につくには困らないというわけである。

 

輿論を味方につければよかったのである。

 

西晋、東晋にもその歴史は連綿と続いている。

 

その歴史的な風潮に乗っかって、

桓温は仇討ちを実行したと私は思っている。

 

こうしたことを、

スパッとやってのけてしまうのが、

桓温の魅力である。

 

桓温は後年、北伐を実行することにより、

輿論をつけて、権力を掌握する。

しかし、桓温の北伐は、

実は戦略的には大した意味もない。

意味があるのは、

政治的な部分である。

政治的なインパクトは計り知れなかった。

 

この部分がこの父の仇討ちと同じで、

輿論を意識した桓温の策略を

感じさせるのである。

 

桓温は、

この仇討ちで名をあげる。

多分に、20歳行くか行かないかの年齢であろう。

官途にもついていない。

 

私は父がいないために

官途に就くのに不利なことのウサ晴らしか、

もっと狡猾に父の仇を雪いだことを

意図的にアピールするためだったか、

のいずれかだと考えている。