歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

東晋北伐⑫長安を陥せなかったが帰還した桓温は英雄となる。

 

 

 

●長安攻略失敗で失意の桓温、実は41年振りの快挙であった。

 

桓温は、

354年6月に襄陽に帰還。

前秦の帝都長安まで迫ったものの、

兵糧不足のため撤退。

長安を落とせなかった。

 

失意の桓温であったが、

東晋の反応は違った。

桓温の快挙に沸いた。

そう、考えてみれば、313年に西晋が洛陽を失陥してから、

初めてわかりやすく華北へ攻め込んだのだ。

 

それまで常に劣勢で逼塞感の漂っていた東晋社会において、

これほど喜ばしいことはなかった。

 

どうしても、私も含めて、「中国」という単位で

中国大陸を見がちだが、

この当時、漢民族は江南に逃げ込み、東晋として存在した。

華北は異民族に蹂躙され、

夷狄の地となってしまっていた。

 

現代風の民族観で見れば、

当時は漢民族存亡の危機にあったのだ。

それを、桓温は一矢報いたのである。

 

●司馬昱首班の東晋朝廷も桓温を賞賛せざるを得ない。

 

時の皇帝穆帝に前秦軍を破り、

長安へ迫ったことを賞賛される。

とはいえ、

穆帝は幼帝であるので、

これは事実上執権司馬昱以下朝廷の意向である。

 

領土の拡張に成功したわけではなく、

3000戸の人民を連れ帰ったこと、

前秦軍への戦勝が今回の成果であった。

 

戦略的な価値はあまりないが、

ジリ貧の東晋にとって、この桓温の勝利は、

大変大きなものだった。

 

7年前の347年に桓温が成漢を討伐した際には、

東晋政府は、結果を追認するのみで、

桓温に対して冷たかった。

 

荊州と蜀は桓温に任せるものの、

政権運営に関わらせるわけでもない。

 

東晋建国以来の快挙を東晋は喜ばなかった。

 

しかし、今回は違った。

中華の歴史的古都、長安まで迫ったことは、

中華正統王朝を標榜する東晋にとって

大きな意味があった。

 

あともう一歩で、

中華正統王朝としての面子を回復することができるところであった。

 

政治的プロパガンダはもちろん大きい。

しかし、何よりも、

東晋に所属する人間として、

この華北という漢民族の故郷を

憎っくき異民族に跳梁跋扈されるという

この暗黒の時代。

もしかしたら、我らが東晋が

あるべき中華統一を成し得るかもしれないという

夢を見ることが一瞬でもできた。

桓温は夢を見させたのである。

 

それだけでもこの桓温の第一次北伐の意味、意義はとてつもなく

大きいのである。

 

桓温はこの亡命政権、東晋の、

穆帝、司馬昱以下全ての人民に夢を与えた。

 

ここから、桓温は衆望を集めるようになる。

 

●衆望を背景に、桓温は動員兵力の増加を狙う。

 

さて、当の桓温はただ喜ぶだけではなかった。

そもそも戦略的には何の変化もなかった。

 

関中は依然として前秦が割拠、

河北は前燕が勢力を伸ばす。

 

それに対して、本来は

比較的余裕のあるはずの東晋。

 

しかし、桓温が動かせた軍勢は、

たったの4万人にすぎなかった。

 

対する前秦は5万人である。

 

東晋は、

三国時代の、呉と蜀漢を合わせた領土を持っている。

三国時代末期の情報によると、

呉の動員兵力は20万人、

蜀漢の動員兵力は10万人。

 

呉は建康を中心とした江南と、

荊州にエリアが分かれるので、

それぞれ10万人ずつと仮定する。

つまり東晋全体としては20万人の動員兵力を保持するはずだ。

 

桓温は、その中で

呉の半分荊州と蜀漢が割拠した蜀の軍権を持っている。

本来は15万人の兵を動員できるはず。

 

この桓温の時代、

それまでの動乱により人口減はあっただろうが、

多分に三国時代とそれほど人口は変わりはなかったはずだ。

 

西晋成立時には中華全土において1680万人、

三国時代中期において、三国の合計人口は680万人。

 

桓温の時代は、

この人口の間に位置しているはずだ。

 

それなのに、

4万しか動かせないという現状。

 

これは何故か。

 

理由は二つある。

 

僑籍と貴族の大土地所有である。、

 

・課題1 僑籍

僑籍は、

八王の乱、永嘉の乱の結果、

異民族により華北は蹂躙された。

このため、大量の流民が発生。

それが江南は東晋へ流入。

 

東晋としては、

彼ら流民を元の居住地の名前を冠した州を創設。

そこに属させた。

しかし、

彼らは、税や賦役の免除をされていた。

 

つまり東晋に逃れてきたものの、

東晋は彼らに課税できず、

軍役に従わせることができなかった。

 

平たく言えば、

東晋という国家の資産にこの流民はならなかったのである。

 

・課題2 貴族の大土地所有

東晋は貴族名族社会である。

皇帝の実権は著しく弱かった。

 

九品官人法に由来する貴族名族社会で、

縦方向の成り上がりはなかった。

 

東晋の前身、西晋から社会は、

貴族名族を重んじる風潮があった。

 

だから、

華北から江南に逃れてきた貴族名族は、

本来はただの流民でしかないにも関わらず、

各々土地を与えられる。

 

東晋皇帝という体制を支えるために、

貴族名族が必要だった。

 

それが、

瑯琊王氏であり、陳郡謝氏であった。

 

彼らは、

独立して領地を持つ。

そこで、各種生産活動を行い、

私兵を養うのである。

 

東晋という国の中に、

貴族たちの国がある。

 

それは、春秋時代から連綿と続く歴史とはいえ、

華北の異民族王朝がひとりの異民族領袖に従って、

国家活動を行うのに対して、

余りにも分権主義過ぎた。

 

東晋という国家としての、

まとまった軍事行動ができない。

 

これに最も割りを食ったのが

桓温である。

 

●民衆と桓温 対 貴族名族 という構図ができる。

 

ここで、上記をもう少し歴史を俯瞰した言い方をしたい。

 

すなわち、

寒門 vs 貴族名族の構図である。

桓温以前には、曹操、以後は劉裕が同類項である。

 

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桓温は寒門と言われるほど悪い家柄ではないが、

大きな歴史の流れからすると、曹操・劉裕らと並ぶ。

改革派と言えばいいのだが、中国史では寒門という言い方になる。

改革は嫌われる。

 

 

こうしてこの後、桓温は曹操になぞらえられて、

叩かれ始める。

 

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桓温の第一次北伐の時点において、

既に二度土断法が施行されている。

 

土断というのは僑籍として扱われた人民を、

既に定住したとみなして、

その土地その土地の行政に属させ、

賦税、賦役を課すというものである。

 

土断はすなわち、

国家による人民の資産化である。

 

しかしこれも実行するのは、

東晋の皇帝と官僚であり、

強い力を持つ貴族名族たちに遠慮せざるを得なかった。

 

そのためこの二度の土断法は不完全なものに終わる。

 

しかし、

たかだか4万人の兵力で、

華北を制覇することなどは無理だった。

 

これは桓温の今後の課題として残る。

 

ここに、

桓温に対して、貴族名族たちが障害となっていることがわかる。

 

桓温 対 貴族名族。

という構図が出来上がる。

 

成漢制圧、第一次北伐での長安攻囲というインパクトにより、

人民の圧倒的指示を得る桓温。

 

しかしながら、事実上東晋の実権は各貴族名族が持っている

という現実。

 

皇帝の事実上の代理として、

執権司馬昱は両者のバランスを見て、それぞれ利用をする。

 

これが東晋の政治である。

 

桓温という成り上がり者に対する、

貴族名族の嫉妬もある。

 

彼ら貴族名族は桓温の足を引っ張る。

中には、桓温の北伐に協力的な陳郡謝氏の

謝尚のような人物もいるが、

例外である。

 

尚、父は謝鯤であり、幼少より世に知られ、

司馬越、のちには王敦のそれぞれ直属官として採用されている。

陳郡謝氏が世に出た謝鯤の嫡男である謝尚は、

直系であった。謝安は傍流である。

 

ここに後に、桓温を謝安が非難する伏線が出来てくるが、

これは桓温晩年の話である。