歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

東晋北伐⑬桓温が第二次北伐で洛陽を狙うまでのやりくりについて。

東晋政府の全面協力を得られない桓温は電撃戦で洛陽を狙う。

結論はこれだ。

しかし、そこに至るまで、桓温は東晋内で、

準備を始める。それは調整力・政治力が問われるものであった。

 

桓温は第二次北伐へ備え、動く。

東晋政府とのやりくり、調整力と軍事戦略眼で、

桓温は第二次北伐を実行、そして洛陽攻略を実現する。

 

 

●桓温に親不孝をさせてまでも東晋は軍事を桓温に押し付ける。

 

桓温は長安攻略を成し得ず、不本意であったが、

第一次北伐は東晋の民に希望をもたらした。

 

必然的に桓温の次の動きに対して、

期待が高まるが、

桓温の母、孔憲が世を去る。

 

桓温は官を辞して故郷で母の葬儀をすることを

朝廷へ申し出る。

これは儒教の観点からすれば当然の行為である。

東晋は儒教の色合いが強い国家であり、

これをしないことの方が叩かれる。

 

例えば、西晋時代のことだが、

正史三国志の著者陳寿は、

母を故郷蜀ではなく、洛陽に葬っただけで、

散々叩かれ、出世の道を絶たれた。

 

母の希望であるにも関わらず、

社会はそれを許さなかった。

 

そればかりか、陳寿を親不孝者、

人格を不適合者として社会は断じたのである。

 

これは、

王莽、後漢光武帝以来の、

孝廉という人物評価の価値観のためだ。

西晋はその前王朝、魏が実力主義を貫いた反動の王朝であり、

よりこの孝廉というものを重要視していた。

 

ややヒステリックなほどである。

 

陳寿はこれだけで出世への道を絶たれたが、

桓温は逆だった。

 

桓温は、

母の葬儀を取り仕切ることを許されなかった。

 

当然のことながら、

東晋は、西晋とイコールで、

歴史上東やら西やらの漢字が乗っかっているが、

同じ晋である。

 

陳寿を親不孝と断じた晋が、

桓温に親不孝をさせたのである。

 

陳寿と桓温に対しての対応がここまで正反対である。

 

●マイノリティ桓温に対して「不道徳」を強いる東晋社会: 

 

陳寿が社会のヒステリックの表れであれば、

桓温に対しては、

対外勢力への恐怖ヒステリックだと私は考える。

 

桓温は、北伐を行った。

しかし、前秦は滅びていない。

報復があって当然である。

 

これを撃退し得るのは桓温しかできない。

 

今は非常事態である。

 

桓温に不孝をさせるのもやむを得ない。

そうしなければ、国が蹂躙されてしまうかもしれないのである、と。

 

のちに南朝は梁の後期は、

貴族たちは女性のような格好をし、

自ら歩くことをしなくなるが、

それはこの東晋期からの軟弱な姿勢に原因がある。

 

西晋以来の文弱な文化は、

対外政策において消極的であるほかなかった。

 

それはそうだ。

詩を詠い、文学交流が第一とされた時代に、

軍事行動などしたい人間は少数派である。

 

桓温は完全なマイノリティであったのだ。

 

この東晋の異端児桓温だからこそ、

母の葬儀をさせないという不孝を、

東晋政府はさせてもいいと考えたのだろう。

 

桓温に対する冷遇、いじめとも言える。

対外脅威ヒステリーとも言える。

 

●桓温、切って返して北伐事業を独占する。

 

このヒステリー、いじめを、逆に返して、

自己にメリットがあるかたちにするのが、

桓温の隠された長所である。

 

この東晋時代において、

浮いた存在の桓温は、

再度の北伐を企図する。

 

対外関係、北の異民族への対応を

東晋社会は桓温に押し付けた。

桓温はこれを利用して、北伐を推進する。

具体的な軍事行動はもとより、

北伐推進のために政治を動かす。

 

桓温は再度の北伐計画に取り掛かる。

 

・桓温第二次北伐計画のターゲット検討:

 

前秦に対して同じ手は通じない。

そもそも、騎兵を多々擁する前秦に対して、

歩兵主体の東晋は、真正面から戦っては不利だ。

 

奇襲が通じないのであれば、

もう一度の前秦侵攻は難しい。

 

となれば、

前燕にターゲットが移る。

 

 

 

前燕は慕容部が創った王朝で、

鮮卑族である。

 

鮮卑は、半牧半農の異民族で、

騎兵を操り勇猛な兵でありながらも、

半農であるため、中華の都市国家の統治ノウハウもある。

かつ、戦上手の冉閔を打ち負かした、慕容恪という

名将もいて、

組みし難い相手である。

 

当時、

前燕は遼東、幽州から黄河河畔以北まで勢力を伸ばしていた。

東晋は黄河河畔以南まで領地を回復、

開封から洛陽周辺の黄河渡河地点を経れば、

すぐに攻撃できる状況であった。

 

しかしながら、

江南の軍権は桓温は持っていない。

軍を動かすのであれば、

東晋政府との交渉が必要である。

 

●空白地洛陽を狙う。

 

 

前燕を攻撃するルートの

もう一つは、

荊州から北上し一挙に西晋の故都洛陽を取り、

さらに河北を狙うやり方だ。

この当時、洛陽は後趙の旧将が籠っていた。

洛陽はほぼ廃墟なので、

東の前燕、西の前秦も後手に回っていた。

 

桓温のやり方は一貫して電撃戦である。

迅速に一気に攻めて、攻略する。

 

桓温が動かせる兵は敵より少ないのだから、

そもそもこれしかない。

しかし、攻め込むところは、

漢民族が多数を占めるエリア。

すぐにこちらになびいてくれれば、

電撃戦で攻略して守りを固めれば

目的は達成できるのである。

 

前燕にとっては、

洛陽は領域外の、さらに南西にあり、遠隔である。

前秦にとっては、関中から東で、狭い道を通る。

ここは潼関、函谷関がある隘路であり、

確実に掌握していなければ簡単に通行できない。

 

一方、洛陽は盆地であり、

掌握してしまえば立て籠もれるエリアでもある。

 

荊州から遠征する桓温にとって、洛陽は戦略目標として

打って付けであった。

 

この洛陽を桓温は一挙に攻め込むことを考えた。

 

かつて栄華を誇った洛陽は今ではただの廃墟だが、

旧帝都を取り戻すことは、

東晋の国威発揚に非常に大きな影響を持つ。

 

少数の兵で、大きなリターンをもたらすには、

洛陽を攻略目標とするのが最も良い。

桓温はそう判断した。

 

ローリスク、ハイリターンが、

洛陽侵攻である。

 

●第二次北伐の本来の目標は姚襄

 

結論として、

東晋を裏切った姚襄の討伐であれば、

東晋政府は桓温に遠征を許可したのである。

 

東晋は簡単に桓温に遠征の許可を出さない。

これは鉄則である。

繰り返すが、東晋は保守的で、軍事向きではないのである。

 

殷浩との仲違いで、

長江北部(江北)にいた姚襄討伐の勅令を

桓温は受けて、

第二次北伐を始める。

 

姚襄は、長江北部の盱眙(現在の淮安市。朱元璋の出身地)から、

許昌へ移動していた。

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姚襄は東晋から離反したものの、

葛陂で立ち往生した石勒と同様周辺を水域に

囲まれた場所で同じく身動きが取れずにいた。

 

建康(今の南京)から盱眙は約100キロの距離。

東京駅から100キロというと、三島、宇都宮、前橋である。

東晋としても、鬱陶しい存在であったはずだ。

 

 

姚襄も石勒も、

異民族として騎兵の操りに長けているが、

長江は渡れないのである。

現在南京近郊の長江に掛かっている、南京長江大橋は、

全長4キロである。

ざっと目分量であるが、

 JR京都駅から北に4キロとなると、

今の京都御所まで辿り着けてしまう。

その間が全て川だ。

 

舟がなければ、渡れない。

 

結局姚襄は東晋を諦めて、

淮水・潁水沿いに許昌へ移動したのである。