歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

石虎と馬の合う姚弋仲、後趙で異民族トップとなる。


●328年の洛陽決戦、その後の石虎の涼州進駐で姚弋仲と出会う。

 

匈奴漢分裂時には、石勒に対して軍事的に有利だった劉曜。

 

しかしながら、

石勒は、張賓を筆頭に漢人官僚の積極登用をし、

厳格な胡漢融合を推進。

幷州、幽州の併合を進めて、軍事力の確保。つまり騎兵の確保。

漢人官僚による中華の都市統治がうまくいき、

関中の劉曜を上回る勢力となる。

 

石勒は、当時異民族はなれないとされた皇帝にはならずに、

趙王のまま国家運営を推進した。

漢民族の広汎な支持を得るためである。

 

 

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後趙石勒は、満を持して、劉曜の前趙が支配していた

洛陽方面へ兵を進める。

 

先鋒は石勒の族子で事実上のNO.2石虎、

前趙領内に深く入り込むも

劉曜に返り討ちされる。

 

劉曜は石虎を追撃、

カウンターで劉曜は後趙を侵攻しようとする。

 

石虎は名うての戦上手だが、

やはり戦上手の劉曜に敗れた。

 

後趙は動揺する。

これに対抗できるのは、

やはり戦上手の石勒が親征するほかない。

という流れで、

劉曜の前趙と、石勒の後趙、

それぞれの大将が親征し、洛陽周辺で対峙するということになる。

 

●石勒との洛陽決戦で劉曜敗死、石虎の前趙進駐。

 

この戦いは石勒の勝利に終わる。

戦いの最中、劉曜は石勒軍の捕虜となり、

前趙は全面的に崩壊する。

 

石勒は、石虎を関中に侵攻させ、

一挙に亡き劉曜の前趙を滅亡へと追い込む。

 

この最中、

石虎が出会ったのが、

羌族の姚弋仲である。

 

姚弋仲は劉曜に付属していたが、

石虎の関中、涼州進駐の時に降伏。

 

姚弋仲は誰に対しても敬意を払わず、

無骨な人物。

 

一方、石虎は族父石勒の胡漢融合政策にうまくなじめず、

良くも悪くも異民族の風習を残していた。

 

互いに馬が合ったのが、

両者は意気投合する。

姚弋仲は石虎の旗下となる。

 

●石勒の死後、簒奪した石虎は姚弋仲の諫言を受ける。

 

次の変化は、

石勒の崩御である。

 

石勒は333年に崩御する。

その前に石虎は権限を削減されていた。

 

石勒が華北を支配し得たのは、

胡漢融合政策の結果であり、

嫡子で漢文化を理解した皇太子石弘に

つつがなく皇位継承をしたかった。

 

一方石虎は、

石勒の晩年に左遷されている。

 

石勒創業から、

石勒は襄国、石虎は襄国の南方の鄴を管轄していたが、

その鄴を石勒によって没収。

 

石勒はその鄴を皇太子石弘に与えた。

 

鄴は曹操以来の軍事的要地であり、

石虎に持たせ続けるのは、皇太子石弘に円滑な後継を

模索する石勒にとっては危険であった。

 

合わせて、軍権も石虎から奪う。

 

石虎は、石勒の指示であれば、

従ったが、石勒が死去したとなれば事は変わる。

 

石虎は異民族の文化・風習が抜けきれない人物である。

 

弱肉強食の文化が抜けないのだ。

だから石勒の言う事は聞くが、

石勒の子の言うことなど聞かない。

 

石虎は、自身を左遷した漢人官僚たちを討滅。

石勒を継いだ石弘は早々に石虎への譲位を申し出るも、

石虎は拒否。

 

譲位では、石虎は石弘を受けることになる。

それさえも、石虎は嫌う。

あくまでも石勒の後継者を自負したのが石虎である。


334年に石虎は、石弘を殺害し、

石勒の後継者となる。

この政権の中枢に羌族姚氏の姚弋仲が入る。

 

●羌族姚氏の河北清河郡への徙民

 

石勒の死後、権力を奪取して丞相となった石虎は、

姚弋仲を清河郡へ移す。

襄国周辺にいた羌族を率いて、

清河郡に移るよう指示される。

 

この時、氐族の苻洪も移されていて、

合わせて動いたのは10万人とされる。

 

姚弋仲の死後、後継者の姚襄は5万人を引き連れて、

華北を彷徨ったので、この時も、

苻洪の氐族が5万、姚弋仲の羌族が5万とみなす。

 

この時の石虎の両族に対する移動指示の目的は何か。

 

後趙の帝都襄国に5万の両異民族が脅威だったか、

それとも、純粋に国防体制の強化か。

 

私は両方であったと考える。

 

石虎は、羌族、氐族などの異民族に介入されることなく、

後趙の後継争いを片付けたかった。

 

・氐族は枋頭

 

苻洪(このときは蒲洪)の氐族は枋頭が移動先だった。

ここは黄河渡河地点の要衝で、

後に桓温第三次北伐ではここを巡って、

桓温と前燕慕容垂が争う。

 

要衝の守りという名目で、

帝都襄国から羌族、氐族を追い払った。

 

この時点では石虎からは、

姚弋仲も含めて石虎から羌族、氐族は警戒されている。


それは姚弋仲も苻洪も理解していただろう。

 

●簒奪した石虎を救った姚弋仲は異民族トップとなる。

 

この羌族・氐族の両族が並列に扱われていたのに変化が出たのは、

334年に石虎が石弘を排除し、

後継の座についた後である。

 

姚弋仲は石虎を直接弾劾したのだ。

 

姚弋仲は石虎が後趙の後継者となってから、

まず朝廷に参朝しなくなった。

 

石虎からの再三の要請に応えて、

参朝すると、姚弋仲は石虎に言い放つ。

 

姚弋仲「あなたは輔弼の臣なのに、何故簒奪したのか」

 

朝廷というのは、剣を帯びてはいけない。

つまり、この時の姚弋仲は丸腰である。


その状態で、粗暴で有名な石虎に楯突く、

それも簒奪と言い放つのは相当な度胸である。

大半の人は、殺されると思ったはずだ。

 

しかし、石虎は姚弋仲のこの剛直さを買って、

許す。

そして、十郡六夷大都督、冠軍大将軍となす。

 

石虎一族以外の異民族で姚弋仲はトップに立ったのだ。

 

姚弋仲は元々直言を好み、

石虎に対しても、初めから敬称なく呼び続けた。

 

なのに、上記の「輔弼」という言葉を使うことからわかるように、

漢文化を理解していたのは不思議なところである。

 

姚弋仲は異民族は皇帝になれないと言っていて、

かつ姚弋仲自身の死の間際に、子で後継者の姚襄には、

後趙が崩壊したからには東晋に帰順するようにと言っている。

 

姚弋仲は漢文化を理解しながら、

自身が異民族であることを自身蔑み、慎ましくしていた人物だったと

思われる。

 

そのため同類の異民族、すなわち石虎には

同類として扱う。そこには敬称はない。

 

姚弋仲は漢人、異民族という概念に関して、

異民族として差別される側でありながら、

厳しく区別をしている。

 

それに今回は石虎は救われた。

 

石虎は、自身を冷遇した漢人官僚を排除して、

石勒の後継者となった。

しかし、
後趙は胡漢融合の国で、石虎は漢人も統治する必要がある。

石虎の簒奪は事実で、

そして、石勒よりも石虎は確実に胡、すなわち異民族シフトしている。

それを批判できる漢人はいない。

いやいたら、その処遇によって石虎は寛容を示すことができたであろう。

石勒の後継者石弘は、徳がなく、

これに代わったと適当に言えばいい。

しかし弾劾者がいないのだ。

漢人は怯えて、

石虎に面従腹背をする。

異民族も同様だ。

滅法戦に強い石虎に逆らいたい輩はいないだろう。

そこを、

面と向かって、姚弋仲は石虎は批判した。

石虎は、ここで姚弋仲に対して寛容を示せば、

後趙はまとまったのである。

 

それをした。

石虎は姚弋仲に救われたのである。

 

もしかしたら、

石虎が姚弋仲に対して、根回しをしたのかもしれない。

朝廷で、我の面前で批判せよと。

 

この可能性の方が高そうだ。

石虎はこの後15年の安定を後趙にもたらす。

国をまとめるために芝居を打ったのだ。

姚弋仲は劉曜討滅の際からの付き合いで、
直言居士で信用ができる。

姚弋仲に石虎は批判させ、
そして寛容を示す。

みんなが思っていることを姚弋仲に言わせて、
諸臣のガス抜きをするということだ。

この功績で、姚弋仲は石虎後趙の異民族トップとなる。

 

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