歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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氐族の前秦苻氏 苻堅に至るまで。

前秦苻氏。異民族の氐族である。

 

元々は蒲氏である。

後趙石虎死後に苻洪(当時は蒲洪)が

後趙から離反した時に、姓を変えた。

 

出身は、

略陽(今の甘粛省天水市秦安県。天水市北部)である。

 

天水秦安なので、

羌族の南安よりも東で、長安寄りである。

 

苻堅に至るまでの、氐族苻氏の族長は、

 

苻洪、苻健、苻生、そして苻堅である。

苻生が暴君のため、反乱が起き、苻堅が立ったとなる。

 

 

●氐族苻氏、興隆のきっかけ・苻洪(苻堅の祖父)

 

永嘉の乱の最中、

氐族軍団の長となる。

劉曜の前趙、その後石勒の華北統一により後趙に属する。

 

石勒死後、皇位を簒奪した石虎が羌族・氐族を

河北へ強制移住(徙民)させた。

その苻洪は流民都督として、

枋頭に居住。

 

ここは、黄河の渡河地点の一つで、

後年桓温が第三次北伐の際に、

慕容垂と戦って破れた場所(厳密にはこの周辺エリアだが)である。

 

枋頭は、

南方の東晋に対する河北の最前線であり、

そこを氐族の苻洪が任されたというわけである。

 

石虎(武帝)の死後、

後趙内乱により冉閔が魏を建てる。

 

冉閔は胡殺令を出し、

氐族を含めた異民族の徹底殺戮を指示する。

 

それは冉閔が漢民族であったのに

石虎の養子として、簡単に言えば、良い思いを

していた過去を消したいためであった。

 

冉閔は、

故石虎の子どもたちと反目し、

争いに勝って魏を建てた。

 

漢民族なのに石虎の養子として良い思いをしてきた冉閔、

それが今度は石虎の子供たちと争い、

殺した。

この辻褄を冉閔が合わせるためには、

私は漢民族で嫌々石虎一族に従属していたが、

実は異民族は大嫌いだ、すなわち徹底的に排斥すると言うしかなかった。

 

これで後趙政権の中枢で支えていた匈奴・羯を中心とした

異民族が20万人殺戮された。

 

●冉閔の大乱で氐族苻洪は関中へ移動する。

 

こうした後趙崩壊劇の中で、

苻洪は枋頭を退去し、

西は関中に移動する。

石虎の将、麻秋の提案だった。

苻洪は350年2月大単于・三秦王と自称。

ここで苻氏に改姓する。

関中方面へ移動する。

 

石虎の死は349年4月なので、

かなり早い段階で移動したことになる。

 

この移動の途中で

苻洪は死去。350年3月のことである。

麻秋が自立しようとして、苻洪を毒殺したのである。

享年67歳。子の苻健が麻秋を殺害。

 

こうして、 

後を苻健が継ぐ。

 

●苻健(苻堅の叔父。苻健の末弟苻雄の子が苻堅。)が前秦建国。

 

苻健は351年に長安を確保、

大秦天王・大単于を称す。(在位351年ー355年)

 

352年1月には皇帝を自称する。

 

しかしながら国内はうまくまとまらず、

内乱が続く。

 

353年には、

甥の苻莄眉が疑心暗鬼に駆られ、支配していた洛陽を棄てて逃走。

 

354年には、

東晋桓温の侵略を受ける。

迎撃するも、桓温軍の侵攻は続き、関中にまで侵入される。

 

苻健は太子苻萇に桓温軍の迎撃を指示。

太子苻萇は長安近郊の覇上で交戦、

乱戦の中、太子苻萇は流れ矢に当たり死去する。

 

桓温軍は太子苻萇軍に勝利。

前秦は長安に籠城。

桓温軍は兵糧不足で撤退するも、

遥か荊州から本拠長安まで攻め込まれ、

太子苻萇が戦死したという事実は、

前秦の脆弱さを露呈するのには十分であった。

 

このように対外的には負け続きであった。

 

桓温第一次北伐の翌年の355年、

苻健は病に伏し死去。39歳の若さであった。

諡号は、景明帝。

 

苻生が継ぐ。

 

●暴君苻生

 

・苻堅のために貶められた記述が多い、苻生。

 

この苻生という人物は、

次代の苻堅という存在のために、

必要以上に貶められている記述になっているという説がある。

 

それを前提に記述を読んでいただきたい。

苻堅は苻生の従兄弟である。

従兄弟であるので、家が違う。

ということは、当時の厳密な概念でいうと、

これは王朝が変わったということを指す。

 

となれば、それにはそれ相応の大義名分が必要であり、

苻堅を持ち上げ、苻生を貶めるというロジックとなる。

 

結局実態はわかりにくいのであるが、

苻生の時は前秦はまとまらなかったが、

苻堅はまとめたというのは事実である。

 

 

・苻生の暴虐と戦上手

 

 

 苻生は生まれつきスガメ(眇め)であった。

眇めとは、生まれつき片方の目が小さいことを指す。

 

これを祖父の苻洪は忌み嫌った。

 

しかし、苻生は生来の感情の荒々しさから、

氐族長の祖父苻洪に反発。

 

鞭打たれるどころか、

殺されかけたこともある。

 

叔父で苻堅の父苻雄の取りなしもあり、

一命を取り留めるが、生来の気性の荒さは変わらなかった。

 

スガメのコンプレックスもある一方で、

彼は軍事の才能があり、内心自身が正当に認められない思い、

忸怩たる思いがあったのだろう。

 

これは、前秦三代皇帝に即位してから、

この思いが爆発する。

 

女官、奴隷、官吏数百名を惨殺。

苻生の眼のことに若干でも触れたものは殺戮。

つまり言いがかり、八つ当たりもあるということだ。

 

このような暴政を行いながらも、

劣勢続きだった対外情勢は攻勢へと転じる。

 

356年2月には姑臧の前涼を従属させる。

357年5月には、

苻生は苻堅を総大将として、

関中に侵入してきた羌族の姚襄を攻撃。

姚襄を敗死させ弟の姚萇を服属させる。

 

しかし苻生は暴政を行うのに、

対外的に順調なのに逆に危機感を覚えた大臣たちが、

反乱を起こし、苻生を殺害。

 

名声の高い、

苻法・苻堅兄弟に政権を委ねる。

 

●苻堅即位のタイミングで、前燕・東晋・前秦の三国鼎立となる。

 

兄苻法は後を継ぐためことを辞退。

苻堅が後継となる。

357年6月のことである。

 

後に、

辞退をした苻法は、

苻堅の母荀氏に殺される。

我が子可愛さに、才能のあった苻法は殺された。

同357年11月のことである。

 

苻堅は即位後10年近く内政に勤しみ、

ようやく前秦は落ち着く。

 

この補佐に当たったのが王猛である。

苻堅即位後357年8月に中書侍郎につき、

仕事振りが苻堅の目に留まる。

359年には王猛は中書令に任じられ、苻堅の補佐に当たる。

これで前秦は基盤を築き始めるという流れになる。

 

一方、鮮卑慕容部の前燕は357年に鄴へ遷都、

完全に中華王朝へと進化。

 

東晋は桓温の第二次北伐が356年に実行される。

桓温は洛陽の占拠に成功。

 

357年にこうして五胡十六国時代の2回目の三国時代が成立する。

 

五胡十六国時代の第一フェーズは、

後趙と東晋の南北対立、

第二フェーズは、

前燕、前秦、東晋の三国時代である。

それぞれ各国の主役は、

慕容恪、苻堅、桓温である。