鮮卑慕容部において、中華の歴史に関わって前燕の建国滅亡までの
トップは下記の5名である。
慕容渉帰、慕容廆、慕容皝、慕容儁、慕容暐。
(それぞれの読み仮名は、
ぼようしょうき、ぼようかい、ぼようこう、ぼようしゅん、ぼようい。)
慕容渉帰の代に、鮮卑慕容部として西晋に認められ、
慕容廆の代に遼東で一勢力として自立、
慕容皝の代に遼東に覇を唱え前燕として国を創る、
慕容儁の代で皇帝となり、
慕容暐の代で滅亡する。
●鮮卑慕容部、慕容渉帰の代に一勢力となる。
遼東の慕容部。
東を高句麗(後の女真族、満州族と言ってもいい)、
西を鮮卑段部、
北を匈奴宇文部、
という強敵に囲まれ、目立たない存在であった。
彼ら三部族の強敵の中で、
鮮卑慕容部は、遼西から遼東をさまよっていた。
遼東は遼東半島を中心としたエリア(現在の中心地は大連)、
遼西は遼東半島の北から西へ渡るエリアで、瀋陽が中心地。
彼ら鮮卑慕容部の活路の見出し方は、
西晋の藩国となることであった。
西晋初年、
慕容渉帰が西晋の冊封を受ける。
元々、慕容部の史書上の初登場は正史「三国志」である。
鮮卑の檀石槐の一部族長として登場する。
檀石槐は曹操に擁された献帝が即位する前の後漢末に
北方を荒らした鮮卑の英雄である。
慕容部は、その後紆余曲折あって、
西晋に擦り寄ったというわけである。
慕容渉帰は、西晋から背反を繰り返し、何とか生き延びる。283年に死去。
まだまだ西晋に力があるころである。皇帝は西晋武帝司馬炎である。
●慕容廆の代で鮮卑慕容部は自立した勢力となる。
慕容渉帰の死後、異民族お約束の内紛が起きる。
その結果、慕容渉帰の嫡男慕容廆(ぼようかい)が285年に
大人(部族長)となる。
慕容廆は269年の生まれ(没年は333年。石勒と同じ没年)であるから、
父慕容渉帰の死の283年当時、まだ14歳であった。
異民族は弱肉強食が当然なので、
叔父慕容耐が大人の地位を乗っ取ったが、
後に奪い返した。
この慕容廆は、鮮卑慕容部にとっての中興の祖である。
のち、慕容部が前燕を建国したのちには、
慕容廆は、廟号を高祖とされている。
息子の慕容皝が太祖であり、
廟号の順位としては二番目である。
参考までに、
三国魏は、太祖が曹操、曹丕は高祖、
西晋は、太祖が文帝司馬昭、高祖は宣帝司馬懿。
高祖と通称で呼ばれるのは、前漢劉邦だが、
本当の廟号は「太祖」であり、諡号が「高皇帝」のため、
略称として「高祖」と呼ばれた。
略称、通称だった高祖が正式に使われるようになったのは、
曹丕である。
魏の建国者である曹丕を顕彰するのにふさわしい、
かつ曹操の太祖とかぶらないが、同等に近いものは何かということで、
正式に「高祖」という名称が確立した。
●曹操の廟号 参考記事
慕容廆の代には、
西晋が八王の乱で没落、永嘉の乱で滅亡。
混乱した華北の情勢の中、
遼東にて弱小勢力ながら、
何とか勢力を自立させた代である。
●慕容皝の代に燕王を名乗る。
慕容皝の代に
周辺の対立勢力であった、
鮮卑団部、匈奴宇文部を滅ぼし、
高句麗を屈服させ従属させる。
こうして、遼東における覇権を握った慕容皝は、
338年勝手に燕王を名乗る。
東晋とは断行状態となる中、
後趙の石虎が鮮卑慕容部を攻めてくる。
これを見事撃退。
こうして鮮卑慕容部としての存在感が確立した。
●慕容儁、前燕皇帝となる。
348年に後を継いだ慕容儁。
翌349年に石虎が死去し、
後趙が内乱状態となる。
これに乗じて慕容儁は350年に薊(今の北京)、
すぐに遷都。
352年に鄴を攻略。
これをもって慕容儁は皇帝となる。
357年には鄴へ遷都。
石勒が始めて異民族として華北に王朝を建てたが、
その後継として中華に王朝を建てたのである。
●前燕のラストエンペラー、慕容暐。
慕容儁は、360年疫病で死去。
東晋に大攻勢を仕掛けようとして鄴に
大勢の兵を集めて疫病が発生、それに罹って死去した。
後を継ぐ、慕容暐は当時10歳。
それでも前燕は揺るがなかった。
それは、
慕容儁以後の前燕の破竹の勢いは、
慕容儁の弟慕容恪と、叔父の慕容評の
輔弼体制がうまくいっていたことが成功要因だからである。
367年に慕容恪が死去するまでは、
この勢いは続く。
しかし、
367年に慕容恪が死去すると、内部対立が激化。
そうした中、
東晋の桓温が369年に北伐を仕掛けてくる。
まとまらない前燕の執政慕容評は
遼東への撤退も検討するが、
慕容垂が独断で出兵。
桓温を撃退するも、
慕容垂が慕容評と対立どころか決裂。
慕容垂は前秦は苻堅の元に亡命。
前秦は前燕に侵攻し、前燕を滅ぼす。