歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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慕容皝が、鮮卑慕容部が中華へ覇を唱える礎を築いた。

 

慕容皝(ぼようこう。297-348年)

前燕の太祖文明皇帝。

51歳で死去。在位13年である。

 

 

●鮮卑慕容部が燕として中華圏の勢力となったのが慕容皝時代

 

父慕容廆の在位48年には遠く及ばないが、

慕容皝の代に燕として独立という偉業を成し遂げる。

王朝を建てたので太祖とされる。

「太祖」というのは、始まりの祖先という意味。
「太」=始まり、「祖」=祖先、先祖である。

 

王朝の祖は、基本的に皆太祖だ。

劉邦、曹操、司馬昭、みな太祖である。

 

慕容皝は、遼東・遼西において、

鮮卑慕容部が覇を唱えるに至った君主である。

彼の時代に、燕を建国、王を称した。

 

皇帝になるまでは至らなくとも、

王として国の礎を築いた人物は、

その国が後世帝国となったときに、

この人物は基本的に廟号太祖として廟に祀られる。

 

慕容廆の三男で嫡子。慕容皝である。

 

・慕容皝の方針は、父慕容廆路線を継承。

 

とはいえ、

慕容皝の方針は、父慕容廆の取った路線の継承である。

 

基本的に江南に逃げ込んだ東晋と基本的に友好関係を継続しながら、

周囲の敵を駆逐していく、というものである。

一点だけ異なるのは、燕王を称したことである。

 

鮮卑族は半農半牧の異民族だ。

だが、中華の都市文明を支配するに至り、燕王国として国家体制を整備。

これまでの異民族部族制だけではなく、中華式の統治機構、百官の整備などを

行ったところが慕容皝治世の大きな特徴である。

 

下記に時系列で慕容皝の事績を辿る。

 

●慕容皝体制立ち上がり期の内乱


父慕容廆が333年5月に死去。

333年6月に東晋から承認の下、慕容皝は後を継ぐ。

 

・庶兄慕容翰らとの争い

 

まずは、鮮卑慕容部、お家芸の兄弟争いである。

 

333年10月長兄慕容翰が段部へ出奔。

慕容翰は武勇に優れ、民政もうまかった。

父の代から武勲も数々挙げたが、庶子だったため後継とはなれなかった。

父慕容廆が死去すると、異民族の常で、兄弟間の争いが起きる。

その結果、慕容翰の亡命に至る。

 

弟慕容仁、慕容紹も反乱。

慕容紹は333年中に討滅、慕容仁は336年に討滅。

 

鮮卑慕容部の代替わりの度の兄弟間の争いは、

お家芸である。

 

・弟慕容評は慕容皝に従う。

 

しかし、ここで慕容皝の弟である、慕容評が反乱を起こしていないのは、

特筆に値する。

前燕の滅亡の原因ともされる慕容評であるが、

ここで兄慕容皝に乱を起こさないことをどう考えるか。

 

私は、

慕容評は前燕亡国の原因ではなく、

むしろ性格に難があったのは、

前燕から出奔し、

後に後燕を建国した慕容垂の方だと

考えている。

が、この話はまた別の機会に述べたい。

●慕容垂と慕容評の比較

 

 

なお、もう少しだけ述べると、

五胡十六国時代の名将の一人、

慕容恪が兄慕容儁に従順だったのは、

鮮卑慕容部の中で例外である。特別である、

ただし慕容評を除いては。

慕容評も兄慕容皝および慕容儁ら子孫に

従順であった。

 

しかし従順にされた慕容儁は内心、慕容恪のことを恐れていたので、

自身の臨終の間際、子孫の身を案じて、

慕容恪を後継皇帝にしようとしたのである。

 

鮮卑慕容部は呪われたように、

宗族争いが起きるので、慕容儁は自身の死後の子孫を案じたのだ。

しかし慕容恪はそうしなかったので、後世に名が残る。

 

 

●慕容皝は鮮卑段部を滅ぼして、燕王を僭称する。

 

336年までに、鮮卑段部、匈奴宇文部を

遼西から放逐。336年中には段部は滅亡する。

 

遼西の昌黎郡へ本拠を移す。

より中華本土(チャイナプロパー)へ本拠地を近づける。

 

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337年10月、

慕容皝は燕王を自称。勝手に王を称したことで東晋と断交となる。

 

・石虎を撃退

 

338年後趙石虎襲来。

慕容皝が燕王を僭称したことで外交的に孤立していたので、

石虎にとっては絶好の獲物であった。

石虎にとっては石勒の後継者争いに勝利したのちの初めての親征であった。

当然石虎の鼻息も荒く、必勝の遠征だったが、

庶子慕容恪の奮闘もあり、撃退する。

 

・東晋に燕王を認めさせる。

 

339年、

東晋と修好に成功。

東晋は当時、

最高権力者庾亮が世を去り、

弟の庾冰、庾翼に政権が委ねられていた。

庾冰、庾翼は早い段階での北伐実行を狙っていた。

裏をついてくれる位置にいる鮮卑慕容部の協力を欲した。

それで

慕容皝との外交関係を修復した。

東晋が石虎と戦うにあたり、

石虎を撃退した鮮卑慕容部の力は

のどから手が出るほど欲しい、というわけだ。

 

340年

長兄慕容翰の帰還。

 

341年、

慕容皝は東晋から正式に燕王に封じられる。

使持節、大将軍、都督河北諸軍事、幽州牧、大単于に任じられ,燕王に封じられた。

 

慕容皝の鮮卑慕容部は事実上の独立勢力である。

だが、東晋の傘下という名目になる。

しかし、東晋から任じられた、

「使持節、大将軍、都督河北諸軍事、幽州牧、大単于」というのは、

簡単に言えば、河北において、独断で軍事行動を起こしてよい、というものである。

 

東晋は建前だけは整えたが、

鮮卑慕容部の実態を事実上認めたということを意味する。

 

父慕容廆は、

321年に持節・都督幽平二州東夷諸軍事・車騎将軍・平州牧に任じられ、

遼東公に封じられていた。

 

今回の最もわかりやすい変化は、

慕容皝権限の領域が広がったことである。

さらにそれに加えて、「使持節」を付与されたことが大きい。

 

・「使持節」とは

 

「節」とは先端に房のようなものがついた旗。皇帝権の代行の証拠。

使持節…節を付与された格としては最上位。

平時非常時問わず、官職者、無官の者全ての者を独断で処刑できる。

持節…平時は無官の者の処刑のみ。非常時は官職者、無官の者全ての処刑が可能。

仮節…軍律違反者に対する軍法執行権。非常時のみ無官の者を処刑できる。

 

曹爽・司馬懿が任命された「侍中・仮節鉞・都督中外諸軍事・録尚書事」とは

つまり、慕容皝は、

河北における、

行政権、軍事権、警察権、裁判権、徴税権の各全権を得たことになる。

 

●使持節

 

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342年龍城に遷都。

龍城は現在の遼寧省朝陽市。

柳城を龍城とこの時改名した。後の唐の安禄山の出身地でもある。

曹操が赤壁の戦いの前の206年、討伐をした烏桓の本拠地でもある。

 

●三国志における人口対策は「人さらい」

 

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●実は非常に重要な高句麗討伐

 

 

342年から343年にかけて高句麗討伐。

高句麗の王都丸都を陥落させる。

高句麗王、故国原王は単騎で逃亡。

慕容皝は故国原王の父・美川王の墓を暴いて屍を奪う。

死者を暴くのは最大の侮辱行為である。

さらに母妻や珍宝、男女五万人を捕虜とし、拉致した。

宮殿は焼き払って丸都を破壊し、慕容皝は帰国。

故国原王は慕容皝のもとに弟を遣わして降伏。

鮮卑慕容部は高句麗を傘下に収める。

 

これで鮮卑慕容部は中華本土に進出するための後顧の憂いを断った。

また、勇猛な高句麗兵も手に入れ、戦闘力が格段に上がったのである。

 

●匈奴宇文部の滅亡で、遼東鮮卑慕容部王国は完成する。

 

344年、

匈奴宇文氏を滅亡させる。

この戦いにおいて慕容翰の活躍は目覚ましかったが、

矢傷を負い病に臥せった。

それで出仕が出来なくなった。

だが、それを慕容皝に疑われ、

死を賜る。慕容翰は服毒して自殺した。

故国鮮卑慕容部に復帰して四年、慕容翰が弟慕容皝に対していただいた危うさは、

結局現実のものとなったのである。

 

346年、

遼東の扶余を攻撃。扶余王の玄王を捕虜とし、龍城に連行。

慕容皝の娘を娶らせ、扶余を屈服させる。

348年9月慕容皝死去。

鮮卑慕容部にとって、中華を前面に捉えた際の背後に当たる、

旧満州方面を掌握したのが、慕容皝の時代である。

 

これにより、幽州方面への侵略に関して、

後顧の憂いがなくなる。

中華から見て最果ての地、

遼東において強国が密かに出来上がった時代であった。