鮮卑慕容部が、
大きく雄飛するのは慕容儁(ぼようしゅん)の時代である。
これを実現できたのは、
弟慕容恪と叔父慕容評の献身的なサポートがあったからである。
これは、鮮卑慕容部としては、異例中の異例である。
唯一の例外がこの慕容儁の時代であり、それ以外は全て、
後継直後に必ず身内同士の争いがある。
●あっという間に河北を獲得した慕容儁
慕容儁の事績を下記に記す。
348年に慕容儁は、
遼東の覇者となっていた父慕容皝が死去し、その後を継ぐ。
東晋からは、翌349年4月に承認される。
使持節、侍中、大都督河北諸軍事、
幽州・冀州・幷州・平州牧、
大将軍、大単于、燕王に任命される。
(平州は遼東のことである。)
この東晋が慕容儁に
任命した上記のつらつらとした官職・官名は
わかりにくい。
建前、名誉としてのものもあるためだが、
これは一言で言うと、
東晋は河北(黄河以北の東半分のこと)については
慕容儁に任せるという意味である。
本来、これは建前・名誉の部分が大きかったが、
これが実態を持つ事件が起きる。
後趙石虎の死である。
慕容儁が上記のように東晋から任命された、
同じ月の
349年4月下旬に華北を支配していた後趙石虎が死去したのである。
これで、後趙が内乱状態に陥る。
この混乱に乗じ、慕容儁は河北へ侵入。
慕容儁は、上記の東晋から認められた建前があるので、
スムーズに動けたのである。
350年薊(いまの北京)を攻略、遷都。
352年には慕容儁は皇帝を称し、
357年に後趙の帝都であった鄴へ遷都。
●鄴の位置付け。
こうしてあっという間に慕容儁は勢力を伸張させた。
名実共に、石勒・石虎の後趙の後継王朝として、
中華へ侵入したのが、慕容儁の時代である。
●慕容儁の幸運、慕容恪と慕容評のサポート
慕容儁がその治世の開始に当たって、
まず幸運だったのは、
鮮卑慕容部のお家芸、
兄弟、宗族争いがなかったことだ。
何故か。二つある。
一つは、慕容儁の兄弟で最も優秀な慕容恪が、
大人しく慕容儁の言うことを聞いたからである。
もう一つは、叔父で鮮卑慕容部長老の慕容評が、
慕容儁を支えることを決めていたからである。
●慕容部の兄弟争いはいつものこと
祖父慕容廆は、庶兄慕容吐谷渾(ぼようとよくこん)、
父慕容皝は、庶兄慕容翰(ぼようかん)と
争った。
慕容吐谷渾、慕容翰は勇将で、
鮮卑慕容部の高い軍事力を推進したので、
これらが離反するのは、
鮮卑慕容部としては手痛いダメージであった。
慕容吐谷渾は部族を率いて、青海に去る。
人民、それに付属する家畜は異民族の資産であったから、
それがなくなるのは、鮮卑慕容部の力が弱まる。
慕容翰は、鮮卑慕容部のライバル、
遼西の鮮卑段部に亡命。
慕容翰という勇将が去ることはもちろん痛いが、
軍事機密が敵に漏れるのはさらに痛い。
●叔父の専横も異民族の通例
また叔父が乗っ取るということも異民族ではよくあった。
慕容廆は父慕容渉帰が283年に死去した時、
まだ14歳であった。
そのため叔父慕容耐が大人位を乗っ取った。
285年には慕容廆は慕容耐を討ち、
正式に鮮卑慕容部を継ぐが、
年長者の叔父が兄の死後を狙うというのは
良くあることであった。
このように、
鮮卑慕容部で起きた代替わりの度の争乱は、
常に鮮卑慕容部の足を引っ張っていたのである。
しかしながら、
慕容儁が後継となるにあたり、
上記の慕容吐谷渾、慕容翰の立場に当たる、
慕容恪、
慕容耐に当たる、慕容評の
二名が慕容儁に協力したのである。
何が違うのか。
君主である慕容儁が何かをしたと言うよりは、
慕容恪、慕容評のそれぞれのスタンスの部分が大きい。
慕容恪が慕容儁を心底輔弼し、
そしてこの慕容恪に慕容評は協調した。
これが前燕の成功要因である。
次回以降でその理由を説明したい。
〈続く〉