歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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前燕皇帝慕容儁の成功要因②異民族として初めて輔弼をした慕容恪

 

前燕慕容儁の成功要因は、

弟慕容恪と叔父慕容評の協調体制にある。

これは鮮卑慕容部としては、

稀な事象だということを①にて述べた。

 

ここでは、

慕容儁の弟慕容恪個人としてのその存在価値に関して、

述べたい。

 

一般的な慕容恪に対する評価に関してもここでは述べたいと思うが、

前燕にとって最も大事な慕容恪の存在価値は、

「漢人というものを理解している」ことである。

これが結論で、これこそが慕容恪が前燕を後趙の後継者たらしめ、

そして彼の死がイコール前燕を滅亡に追い込んだ理由である。

 

●慕容恪は軍人として歴史的な人物である。

 

前提として慕容恪自身は、

この時代を代表する名臣、忠臣、そして名将であり、

後世に讃えられる存在である。

 

唐代中期に定められた武廟六十四将にも選定され、

歴史的な人物である。

下記ウィキペディア参照。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/武廟六十四将

 

同時代で選ばれているのは下記の三名である。

 

東晋では、

八王の乱、永嘉の乱の中、

孤軍奮闘して荊州を保った陶侃、

淝水の戦いにおいて東晋側の総大将として大勝利に導いた謝玄。

前秦で苻堅を支え、

華北の完全統一を実現させた丞相王猛。

 

この三名と並んでの慕容恪である。

 

私個人としては、慕容恪が最も好きだか、

陶侃、謝玄、王猛、慕容恪の四名で比較したら、

最も知名度が低いかもしれない。

 

王猛は政治家だが、業績は武勲の方が顕著である。

陶侃、謝玄の二名は完全に軍人である。

この武廟六十四将が軍事の観点から選ばれており、

慕容恪も前燕の快進撃を実行した武将として讃えられている。

 

しかし、慕容恪の真骨頂は

そこではない。

陶侃、謝玄、王猛の三名を上回る力、

それがこの時代のテーマ、胡漢融合である。

 

五胡十六国時代というのは、

八王の乱に始まり、

隋の楊堅による中華統一に終わる。

 

これは、漢人と異民族という水と油の存在がどのようにして、

融合するのかという歴史である。

 

五胡十六国時代に入って、初めて胡漢融合を実行したのが石勒で、

それを継いだのが慕容恪である。これがとても重要である。

 

www.rekishinoshinzui.com

 

 

●輔弼を初めて理解できた異民族・慕容恪

 

しかし、慕容恪は石勒と異なり、

君主ではない。

慕容恪は兄慕容儁の弟として、

兄皇帝を輔弼した。

 

輔弼、これこそが漢人の概念である。

これを理解した慕容恪だからこそ、前燕はまとまったのである。

 

兄を支える、サポートする。

それは中華の歴史において、史上初めて、

異民族出身者が輔弼という概念を理解し、実行した。

この歴史的なことを初めて行ったのが慕容恪なのである。

 

弱肉強食が当たり前の異民族において、

誰かを立てて、組織を守るという概念はなかった。

自分の所有物(人も含めて)を増やして、

力を持つこと。

 

それが匈奴以来の異民族の伝統なのである。

 

宗族争いが頻繁に起きた鮮卑慕容部は、

この弱肉強食の文化が強かったと思われる。

 

だからこそ逆に戦争が滅法強かった。

 

この中において、

慕容恪は力がありながらも、

身を謹んで長幼の序や嫡子・庶子と言った

漢人ならではの概念から、

兄を立てる。

 

それは、

父慕容皝と母渤海高氏

という、それぞれ異民族と漢人の

高位層の両親を慕容恪が持ったからであった。

 

慕容恪は異民族と漢人の長所を

受け継ぐ。

 

〈続く〉