●慕容垂の罪はなぜ許されるのか。
慕容垂が前秦へ寝返ったことで前燕は滅びた。
それはなぜ許されるのだろうか。
実は答えは苻堅にある。
この五胡十六国時代の第2フェーズであるが、
この時代はとかく苻堅よりの記述が多い。
それは何故か。
苻堅が儒教の教養を持ったからではない。
漢人の名臣王猛の補佐を受けたからでもない。
八王の乱以後始めて華北の完全統一をしたからか。
どれでもない。
それは、
一言で言うと、結局苻堅は
383年の淝水の戦いで、
東晋に敗れるからである。
●異民族の苻堅が東晋謝安という漢民族に負けたから。
苻堅は自身は儒教の教養を積み、
王猛の補佐を受け、華北を統一しても、
東晋には敵わなかった。
異民族で氐族の苻堅が漢人の真似事をしても、
所詮漢人には敵わないぞ、ということである。
淝水の戦いにおける東晋の事実上のトップは
謝安だ。
中華の正史を作り上げる人たちは、
謝安が偉かったとしたいのである。
謝安は、漢人の名族である。
ちょうど漢民族優越主義には都合が良いのである。
●謝安を持ち上げる漢民族優越主義
ざっとこの時代を知った人であれば、
383年の淝水の戦いから記憶に残るのではないか。
石虎以後の五胡十六国時代の第2フェーズは、
この淝水の戦いという一つの歴史の結論へ
向けて動いていく。
それは東晋の謝安の勝利である。
この結論においては、
負けた側の苻堅もそれなりにはすごかったと
しなくてはならない。
それは、漢人の英雄謝安の評価を上げるためだ。
そのためには、本来は英雄だったはずの桓温すら、
コケ落とす。
桓温はダメだった、しかし謝安はすごかった、である。
苻堅の話に戻すと、
だからこそ慕容垂の行為は正しいになる。
謝安が破った苻堅もそれなりにすごい。
苻堅は前燕を滅ぼした。
慕容垂は、苻堅の徳を慕って裏切ったのだ、となる。
●人として慕容垂の裏切りを許せますか。
すっと横から出てきた苻堅があれよあれよと華北を統一する。
ざっと歴史を語る時には、
八王の乱、永嘉の乱の後に、淝水の戦いだったりもするものだから、
苻堅の凄さになんとなく納得してしまう。
実際には、
苻堅はすっと出てきて、漁夫の利を得たのが前秦苻堅である。
しかし、苻堅に綺麗に各勢力が集約されていく流れが前提にあるから、
漁夫の利を得させた慕容垂の行為になんとなく納得してしまう。
それはおかしい。
叔父と対立、平たく言えばケンカをして、敵国に寝返る。
祖国、異民族だから祖国=出身部族を捨てたのだ。
そして、すぐに敵国の先鋒として、
前燕を討つ。祖国は滅亡する。
前燕に残った鮮卑慕容部の慕容垂以外の人たちは、
この慕容垂の行為を許せるのだろうか。
我々は鮮卑慕容部ではないが、
このようなことが自身が所属しているコミュニティで起きたら、
許せるのだろうか。
まず許せないと私は思う。
そのぐらいのことを慕容垂はやってのけたのである。
そして、最後には慕容垂にとっては恩人と言っていい、
苻堅すら裏切るのである。
●鮮卑慕容部裏切りの歴史は自らを亡国へ導く。
慕容吐谷渾が弟慕容廆と対立して出奔、
部族ごと西に走り、青海にて後の吐谷渾となる国を作った。
鮮卑慕容部には、こうした宗族争いの歴史、癖のようなものがある。
しかしだからといって、本体を潰すようなことはなかった。
しかし慕容垂はそれをやってのけた。
これを言うならば、
魏の曹丕と対立した曹植が蜀漢に投降し、軍勢を率いてくるようなもの、
関羽救援が出来ず劉備に強く叱責された養子の劉封が魏に寝返るようなもの、
呉の二宮(にきゅう)の変において、父孫権が耄碌したからといって、
孫和・孫覇が魏に寝返って、戦いを挑んでくるようなものである。
※実際には曹植は鬱々として過ごして(事実上の軟禁)そのまま死去、
劉封は養父劉備の命で処刑、
孫権の命で孫和は廃太子および幽閉・孫覇は自害命令、である。
西晋の司馬炎と対立した弟の司馬攸は封国で悶死、
反乱を起こすなどは考えもしなかっただろう。
そういった世の風潮の中で、
慕容垂の裏切りだけは、何故かスルーされる。
異民族だから許されるのか。
これは異民族差別であり、
ダブルスタンダートでもある。
苻堅の徳を慕ったのかどうかはわからないが、
鮮卑慕容部前燕としては、慕容垂の裏切りは許せるわけがない。
世に奸臣と言われる慕容評は、
前燕のために最後まで戦ったわけで、
慕容垂と対立したからといって奸臣になるわけでもない。
慕容評が奸臣にさせられるのは、
慕容垂、苻堅、謝安擁護の視点があるからだ。
慕容評は
慕容垂擁護、苻堅擁護、ひいては謝安擁護の被害者なのである。
冷静にその事実だけを考えてみる。
自身の祖先が建国した国を裏切って、敵国に走り、
即座にその国を滅ぼした。
こうした行為をした慕容垂は悪人である。
どれだけ、慕容垂に能力があったとしても、
彼は、現代の我々の感覚から見て、道義的、倫理的な感覚が
損なわれている。
●異民族気質の慕容垂は自己中心的である。
最後に付け加えておく。
慕容垂は、本来の異民族気質を持っており、
自分のことしか考えていない。
それは前燕が滅びたのちも同様である。
前燕が滅びた後、
前燕最後の皇帝慕容暐は前秦苻堅にその身を助けられた。
話は下って、383年の淝水の戦いに
苻堅が敗れると前秦は恐慌状態となる。
各部族が独立の傾向を見せる。
旧前燕の鮮卑慕容部も自立傾向を見せるが、
慕容垂は384年一月にうまく鄴にて自立。
そこで改元し燕王と名乗る。
対して、関中では慕容暐は苻堅の掌中にある。
そのため慕容暐の弟慕容泓が384年に自立するが、
兄を立てて、燕王にはならない。
慕容暐も自らがまだ前燕皇帝であるという自覚はあったようで、
自身が苻堅に殺されたら、大業を建てることを優先し、
皇帝を名乗れと弟慕容泓に密書を送っている。
※資治通鑑にそういう記述がある。
つまり、
慕容儁の子たちは、その嫡男慕容暐を皇帝として尊重していたが、
慕容垂はとっくにそのような考えはなかったということだ。
慕容垂が前燕を出た時点で、
鮮卑慕容部は分裂していたのである。
それは慕容垂の自己中心的な考え方、行動のためであった。
なお余談だが、
苻堅を支えた王猛にはこうした慕容垂の性格は
見抜かれていたようで、苻堅に慕容垂を排除するよう進言している。