桓温の356年第二次北伐に関して、
そこに至る前の情勢について説明したい。
●河北・後趙の崩壊→東と西に分裂。
349年4月に石虎が死ぬと華北が大混乱に陥る。
後趙皇帝石虎の遺児たちの争い、
そこにつけこんで冉閔が後趙を滅ぼす。
後趙は華北を支配、厳密には華北の大部分を支配していたのだが、
この領域を大きく二つに分ける。
西は関中、東は河北。
関中は長安を中心とした渭水盆地で、
函谷関、潼関、蕭関、武関など数々の関所(日本の関所の概念よりも砦に近いが)
に囲まれたエリアで、秦の故地である。
対して、東は河北と呼ぶエリアは、
函谷関以東で
黄河の北側を河北と呼ぶ。
黄河と言っても、流域が時代によって変わるので、
これも色々だが、おおざっぱな概念として、
洛陽から真東に線を引くと、瑯琊(今の連雲港)に当たる。
これより北が河北だ。
この両エリアをそれぞれ分けて石虎死後を考える。
●西の関中は氐族苻氏
西の関中に関しては、
氐族苻氏は関中へ避難。
長安を取って割拠する。
石虎の死の直後の段階の氐族苻氏族長苻洪が冉閔により讒言をされ、
難を避けるとともに、麻秋の進言により関中で割拠することに決めたからだ。
これは麻秋の策略で、この途上で苻洪は麻秋に暗殺される。
麻秋は苻洪の子苻健(苻堅の祖父)により殺害され、この苻健が関中を占領する。
この当時の長安の存在感は薄い。
前漢や隋唐のイメージがあるので、良いエリアのようだが、
この時代においては、関中よりも河北の方が価値が高い。
●東の河北は前燕鮮卑慕容部が獲る。
元来中華文明発祥のエリアであること、
鄴を中心に東西南北の通行を支配できること、それに伴い幷州の馬を押さえられること、
また幽州(今の北京周辺)の存在感が増していることとが大きい。
石虎の死後、河北は石虎の遺児たち、
石虎の皇后劉氏(劉曜の娘)がそれぞれ相争う。
・冉閔が後趙を滅ぼす。
そこを冉閔につけ込まれ、滅亡する。
冉閔は元々石閔という名前で、石虎の養孫である。
広い意味では石虎一族である。
一族間の争いに勝ったとも言えるが、
自身を正当化するために、反異民族政策として「胡殺令」を取ったため、
河北が大混乱となる。
・鮮卑慕容部が冉閔を滅ぼす。
こうした状況の中、遼東を固めた鮮卑慕容氏が河北へ侵攻。
薊を攻略、冉閔を打ち破り処刑、鄴を陥落させる
青州は段部の残党が押さえているものの、それ以外の黄河北岸地域を確保し、
慕容儁は皇帝に即位。
●どこも取れなかった羌族姚氏
羌族姚氏は、後趙に義理立てし、最後まで戦う。
しかし力及ばず、東晋へ投降。
東晋の殷浩がこの羌族姚氏を先方にして、
北伐を仕掛けるもこの羌族姚氏を苛め抜いた結果裏切られ、失敗に終わる。
羌族姚氏は、盱眙(クイ)に駐留。
この後、桓温が354年に第一次北伐を開始。
関中の前秦氐族苻健に攻撃を仕掛ける。
兵糧切れで撤退。
前秦氐族苻健は桓温を撃退するも、
都の長安まで攻め込まれるという醜態をさらす。
この後に姚襄が許昌へ移動。
その後洛陽を攻撃に向かう。
こうした情勢の中、東晋桓温が第二次北伐を仕掛ける。
ちょうど姚襄が洛陽を攻撃していたタイミングに、
桓温軍が遭遇するのである。