歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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357年末時点で前燕・東晋・前秦の三国対立が確定

357年末で三国対立の情勢が確立する。

 

 

●前秦まとまる。姚襄の死と、苻堅即位。

 

 

姚襄は桓温に敗れた後、

幷州の平陽に逃げ込む。

劉淵が建てた匈奴漢の帝都があった場所である。

 

ここから前秦氐族苻氏の関中を狙う。

関中に侵入、前秦は苻堅を含む軍勢で迎撃。三原にて戦う。

 

姚襄は果敢にも自ら出撃して戦うが、

戦死する。

 

羌族姚氏は柱を失い、

前秦に服属することになる。

 

この戦いの後、前秦で政変が起きる。

皇帝苻生が臣下に殺され、

苻堅が後を継ぐ。

 

苻堅は皇帝ではなく、一つ位を下げて天王と称す。

ここから苻堅は当面内政に専念する。

これで前秦はまとまることとなる。

 

 

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●前燕の河北制覇

 

356年中に慕容恪が青州の段部を滅ぼす。

太行山脈の東(一つの表現としてこれを「山東」というのだが、

山東省は泰山の東の意味で、簡単に言えば古の斉、この時点では青州なので、

混乱する名称である。)

で黄河以北は前燕の支配下となった。

 

357年前燕の慕容儁は、思い切った行動に出る。

鄴へ遷都をした。

 

350年から薊を本拠としていたが、

領域が広がったことで鄴へ遷都。

遼東を発祥とする鮮卑慕容部としてはさらに前進したことになる。

 

鄴の周辺は中華発祥以来の中心地帯に入るエリアで、

曹操以来の軍都、それに伴い当時としては最新の大都市である。

 

皇帝でもある前燕慕容儁はこれで名実ともに

中華王朝として中華に君臨することを内外に示したことになる。

 

 

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●東晋 桓温全盛期

 

桓温の全盛期であり、かつ

東晋としても全盛期である。

 

荊州、揚州を発症に、

蜀を攻略。

 

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354年の長安攻略は失敗するものの、

356年の洛陽攻略は成功した。

 

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揚州、荊州、益州、

それに洛陽を加えたエリアが東晋の支配領域である。

洛陽攻略という桓温の快挙をきっかけに

桓温の政治力も高まっていく。

 

これまで外征に反対であった貴族名族の意見も、

この快挙の前では通らなくなる。

 

これに付随して、

政治的経緯によるゆがみである、

僑籍が注目されるようになる。

 

 

北からの逃亡流民を戸籍に組み入れて、

国力を増強し、本格的な外征、北伐を行うということが

政治課題となる。

 

少し後だが、桓温は360年に南郡公に封じられる。

この爵位は、後にこの桓玄に引き継がれ、

この爵位を根拠に楚という国を建てる。

 

南郡というのは、戦国時代の秦の白起が前278年に

楚を打ち破り、都・郢を占拠。この郢を秦は改名して、

南郡としたのである。

 

つまり、桓温のこの南郡公というのは、

楚公と言っても良いというわけである。

 

ここに、東晋としても、

建国初期の、

建康と荊州に鎮する王敦という構図を

想起させる。

 

建康の桓温に対する警戒は緩むことはなかったが、

桓温は王敦とは異なり、

あくまで東晋という枠組みにはこだわることになる。



●前燕、前秦、東晋の三国対立が確定。

 

三者が上記のように確定し、

それぞれ国力を増強しながら、対外情勢をにらむというフェーズに入る。

 

まさに三国志において、

曹操が死に、曹丕が魏を建国した時期と似たような情勢になったわけである。

 

相対的に有利だったのは、前燕である。

中華の先進地域を掌握し、

そして軍事力の源泉である、馬の調達が最も優位である。

また人口も相対的に多かった。

石勒、石虎が河北への徙民(強制移住)を断行したことも大きい。

関中からの徙民も多く、逆に関中は割りを食った。

 

東晋は領域こそ広いが、

まだまだ開発後進エリアばかりである。

三国時代、蜀と呉が開発したとは言え、まだまだであった。

 

前秦は、

最も劣勢である。

関中は守りやすいエリアだが、

領域が狭すぎる。

馬は調達できるが、前燕の広大な領域にはかなわない。

 

また、生産に関しても、

東晋は八王の乱以降の乱世から難を逃れたエリアが多いが、

関中、長安はその真っただ中にあり、荒廃していた。

上記の通り、後趙の石勒、石虎の徙民政策により、人口も減少し、

開発農地なども縮小していたと思われる。

人口が減れば耕す人もいなくなり、荒廃するのが常である。

 

しかしながら、

関中の名の通り、四方を関と地形的要衝に守られる、

この関中という名の、大きな城とも言えるこの場所は、

前秦が息をひそめて力を蓄えるのに、多大なメリットを与えたのである。

 

こうして、

前燕、東晋、前秦という三国鼎立という、

つかの間のバランスオブパワーが

成立したのである。