歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

「土断法」とはつまり皇帝集権のことである。

東晋において、

土断法というのは非常に重要なキーワードだ。

 

 

歴史上一般的に説明される内容としては、

華北からの流民を仮住まいとして処遇した。

しかし、それは無税、無役の民であったため、

東晋の国力を増強するには寄与しなかった。

 

そのため、正式に東晋の民として扱うために、

つまり徴税、兵役、徴用のため、正式な東晋の民として

の処遇とする。

 

これが「土断」、「土断法」である。

 

しかし、土断とは上記だけではない、

非常に複雑な事情を抱えている。

 

それについて説明したい。

 

●江南、荊州には三国呉以来の世兵制の土壌がある。

 

東晋は、江南と荊州を支配していたが、

その前王朝は三国志の呉である。

 

そもそも呉は、世兵制。

各有力豪族が兵や民を私有。

呉で言えば、孫権の命に従ってそれぞれ兵を出すというやり方。

 

一方曹操は兵戸制。

兵士専門の民として区別。


これらは我々日本人には身近。

世兵制は、

織田信長以前の戦国時代では当たり前のこと。

武田氏、上杉氏、北条氏全て世兵制である。

 

兵戸制はいわば戦国時代の兵農分離で、

織田信長が始めた。

 

東晋は呉の支配領域を受け継ぐ。

この世兵制の文化があるところに、

北からの流民が多数押し寄せる。

 

各豪族は、この民を自領に収容。

民は私有となる。

 

それ以外は無戸籍で、

官僚制度も整っていない東晋としては管理のしようもない。

 

この状況だと、東晋国家としての民が少ないので、

税収は少なく、兵士も少ない。

 

民を持つ豪族は言うことを聞かない。

 

ということになる。

 

権威があろうが、結局は実力主義である。

 

この状況は

日本の平安末期の荘園の状況に近い。

国家管理の田畑から、民は逃げ出す。

貴族の荘園に逃れたほうが待遇がいいからだ。

 

それで、天皇の立場は相対的に低下し、

貴族のトップ藤原氏は荘園という大規模私有地を持つことで、

権力を握った。

 

●土断法とは貴族名族への、皇帝の対抗策

 

そこでこの状況の解決法が土断法である。

 

結論として、

土断をするということは、

国家、というより当時は国家という概念はないので、

皇帝の民を増やすことである。

 

そもそも、

中華において、

皇帝は万物を支配、所有する存在である。

 

なのに、

実態は人間社会なので、

結局権力闘争が行われる。

 

強い皇帝もいれば弱い皇帝もいる。

 

東晋の皇帝は

丸腰で江南にやってきた。

 

そして、当時の風潮として、

自分で戦争に行く皇帝はいなかった。

 

そのために、

自分の子飼いがいない。

領地も事実上ない。

 

皇帝は万物を支配するという名目の中の

存在である。

 

この名目と実態の乖離。

 

これを埋めるために、

土断を行うのである。

 

 

●東晋が土断法を必要とした背景。

 

 

西晋・東晋という文を尊び、武を蔑む風潮。

 

三国呉以来の世兵制という皇帝にとっては不利な歴史。

 

流民の扱いの困難さ。

 

これが土断を必要とした背景である。

 

 

●反皇帝集権と皇帝集権推進

 

王敦や蘇峻が乱を起こしたのも、

全ては上記背景の元、

東晋皇帝が全く力を持っていないからである。

 

乱を起こしてはいないが、

陶侃(トウカン)も大きな括りで言えば同じである。

 

 

陶侃は東晋に忠誠を誓っていたとは言え、

荊州で子飼いを抱えた、事実上の軍閥である。

彼らは三国呉時代の世兵制と同様のことをしただけのことだった。

 

三国呉以来の

歴史的土壌があるので、

東晋エリアでは軍閥化、私兵化は

容易に進んでしまった。

 

これは、

皇帝直轄に逆行する動きである。

 

しかし、彼ら軍閥の存在は歴史の中で際立っている。

 

 

力を持ち、そして歴史に名を残した彼らは、

乱を起こしたとは言え、

ひとかどの人物として扱われる。

だから軍閥という存在が、

東晋という国家継続のためには癌であることを

包み隠してしまっている。

 

●皇帝集権推進派は庾氏と桓温

 

一方で、

皇帝集権を推進しようとした

人物がこの東晋にもいる。

 

 

それは、

第一に庾氏三兄弟である。

 

彼らは皇帝の外戚、法家の大家として、

皇帝権強化のために動いた。

 

第一次、第二次の土断は全て、

庾氏三兄弟の手によるものである。

 

そのために、

散々反発を買い、

歴史的には中途半端な業績に終わった。

 

しかし、生真面目に考えれば、

本来はあるべき国家像としては、

この道が正しかったのかもしれない。

 

 

東晋は集権化が出来ず、

結局まとまりを欠いたまま滅びるからだ。

 

 

歴史の皮肉である。

正しいはずの道が認められなかった。

当時も今も認められていない。

 

そして、第二に皇帝権強化の推進者は桓温である。

 

 

桓温は父を蘇峻の乱で亡くす。

蘇峻の兵に殺される。

 

桓温は家を継ぎ、その後庾亮の目に留まり、

庾亮にとっての姪を娶る。

 

この姪は庾亮にとって妹の子、

妹の夫は東晋皇帝明帝である。

 

明帝は王敦の乱を鎮圧した英主であった。

 

明帝はその後早死にする。

庾亮は幼い甥成帝の皇帝権強化を図り、

土断を実施。合わせて蘇峻の兵権を奪おうとして、

蘇峻の乱が起きる。

 

蘇峻の兵は皇宮まで乱入し、皇太后である妹も被害を受けたようだ。

その後すぐに世を去っている。

 

 

このように散々因縁のあるのが、

この皇帝権強化というテーマである。

 

●桓温と庾亮は志を共にする。

 

庾亮は確実に軍閥に恨みがある。

 

桓温を皇帝の娘とは言え、

自身の姪を庾亮自身の思想と異なる者を

婿に選ぶわけがないのである。

 

 

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皇帝集権、現代風に言えば中央集権をする。

 

それが庾氏三兄弟から引き継ぐ、桓温の思想である。

 

法家思想でもあり、

そうなってくると、

曹操や諸葛亮と考えは一緒で、

桓温が考えたこと、やったことは彼らと何ら変わらない。

 

中央集権のために、行ったのが、

桓温の土断法である。

 

なのに、

桓温は歴史の中で叩かれる。

 

歴史とは歪曲される者である。