土断、すなわち土地で断じるの意味である。
何を断じるのか。民の戸籍を土地で断じるのである。
- ●土断法の実施は全部で9回である。
- ●土断の対象者は流民。彼らは税や役務を免除されていたから。
- ●民の取り合いとも言える土断法。
- ●第一次土断法実施で国力の強化を図る庾亮
- ●庾亮土断法は軍閥の反乱を招き不完全に終わる。
- ●東晋・南朝に大きな課題として残る土断。
●土断法の実施は全部で9回である。
東晋における土断は四回。
327年 庾亮
341年 庾冰
364年 桓温
413年 劉裕
東晋後の南朝でも4回。
457年 宋 世祖孝武帝
473年 宋 後廃帝
481年 斉 太祖高皇帝蕭道成(建国から2年後)
502年 梁 武帝(建国と同じ年)
560年 陳 文帝(建国から3年後)
※年号の後の人物は実施者。
土断とは、
州、群、県の領域をそれぞれ確定し、
民を実施に住んでいる場所をベースにして
戸籍化するものである。
●土断の対象者は流民。彼らは税や役務を免除されていたから。
土断の対象は、
北の動乱から南に逃れてきた人たちとする。
この流民と流民で既に南に仮住まいしている人たちを、
国家の戸籍に組み込むことを目的とする。
賦役、徭役をほかの民と同じように担わせるものである。
賦役・徭役とはつまり納税と建設、軍事を含む強制労働を課すことである。
つまり、逆に言うと、
この流民たちは、当初賦役・徭役を課されていなかった。
北から逃げてきた民は東晋領域に仮住まいする。
そのままの人もいれば、北来名族や江南の名族の支配下に組み込まれるものもいた。
東晋政府としては、
各名族たちの私有になると国家管理の民が少なくなってしまう。
そこで、まずは、戸籍管理をするために、通常の戸籍とは別に、
流民用の戸籍を創った。
これを僑籍、白籍という。
まさに平安時代の荘園に逃れる民と同じだが、
国家がまともに賦役・徭役を課そうとすると、
名族たちはそれよりも良い条件で、
こっちに来ないかとして民を集めようとする。
人は貴重な資源でもある。
機械がない時代のだから、何をするにも人が必要である。
それに対抗して、
東晋としては、まずは戸籍管理だけで労役を課さない「白籍」を創った。
華北の元々の故郷ベースで戸籍を創ったのである。
(例えば豫洲から来た人は豫洲として江南に豫洲を創る。これを僑州という。
州の下には県があり、これを僑県という。)
●民の取り合いとも言える土断法。
しかし、
白籍に入った流民たちを、賦役・徭役の免除をずっとするわけにもいかない。
そもそも当時の状況では、
華北に比べて江南は後進地域であり、
人口も少なかった。
華北の異民族たちは縦横無尽に騎馬を操り、そもそもの軍事力も高い。
それに加えて、相対的な人口差があっては、
東晋の国力の貧弱さは明確である。
そのため、この白籍の流民たちを、本来の戸籍に移すということが必要になってくる。
この本来の戸籍を「黄籍」と呼ぶ。
本来の戸籍、黄籍に白籍の流民たちが移すのは、
賦役・徭役を課すのが目的である。
当然この流民たちはそうされたくない。
そうされるぐらいなら、名族の隷属民になる。
この辺りが日本の荘園発展の過程と似ている。
東晋の国家としての統制力が弱いと、
このようにして名族に民を奪われた。
こうした状況があった。
●第一次土断法実施で国力の強化を図る庾亮
これは、327年に行われた。
早期に江南に逃れてきた流民を対象とした。
このときに、南朝陳を建国した陳覇先の祖先陳康も土断の対象となり、
呉興郡長城県を本籍とさせられた。
この土断のときに作られた戸籍が黄籍と呼ばれる。別名晋籍。
時の執政は庾亮である。
庾亮は、法家である。
法家の基本的な考え方は皇帝権強化、親政である。
さらに庾亮は外戚でもある。
当時の皇帝は成帝で、庾亮の甥であった。
皇帝権強化に迷いがない。
そもそもこの流民たちだが、
名族に組み込まれてしまうという問題ものちにはあるが、
この当時は、北から逃れてきた流民たちのリーダーのものであった。
このリーダーの代表格が、
祖逖、祖約、蘇峻などである。
マイナスのイメージが強い言葉だが、
平たく言えば彼らは軍閥である。
●庾亮土断法は軍閥の反乱を招き不完全に終わる。
彼らは自分たちで塢壁という集落を創りそこに住んだ。
そのため塢主とも呼ぶ。
この塢主の中には、
流民たちを義勇兵に仕立て上げ、
祖逖のように再度長江を北に渡り、石勒を向こうに北伐を行ったという人物もいる。
当時の東晋において、国防を担った者たちであった。
しかし、国家統制の中で、
司馬睿や王敦はそれぞれ、こうした塢主を使うだけ使って、
その軍権を剥ぐということを行っていった。
塢壁を作って籠らなければ塢主とは呼ばないが、
王敦や陶侃も大きなくくりで見れば同じである。
王敦や陶侃は自身で戦い、兵を増やしていった。
後追いで東晋の承認は取るが、事実上の私兵である。
司馬睿は王敦から兵権を取り上げようとして、逆に反乱を起こされる。
王敦の乱である。
それはそもそも王敦が陶侃の兵権を奪って、強大化したからであった。
そして、その後の庾亮は今度は蘇峻から軍権を剥ぎ取ろうとして
反乱を起こされる。蘇峻の乱である。
軍権を剥ぎとることがピックアップされるが、
皇帝直轄の民は、皇帝が直接戦いに行くわけでもないので、
何らかの命令を下さないと増えないのである。
ある程度落ち着いたら、
本来は皇帝の民であるので、
皇帝管理の民に組み込む、それが土断であり、蘇峻らの軍権を取るというものだった。
しかし、蘇峻らからすれば、
自分たちで作ってきた子飼いの民である。
庾亮の紋切り型のやり方には、納得がいかない。
ということで、反乱が起きる。
土断は不完全に終わる。
●東晋・南朝に大きな課題として残る土断。
庾亮が土断を不完全にしか実施できなかったことで、
土断法の実施というのは常に政治課題として残ることになる。
土断法を巡って、
東晋および南朝の歴史に影響を及ぼすこととなる。
土断法を行なって、
国家としてまとまるか、
それとも現状維持で貴族名族の力を温存するか。
こうした政治対立が続いていく。
●参考図書: