歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

淝水の戦いの前後で五胡十六国時代はフェーズが変わる。

 

300年の狭義の八王の乱から、

事実上五胡十六国時代へと突入する。

これが終わるのが、北魏による華北統一だ。439年である。

(439年は一般的な認識。だがまだ後仇池が武都郡に残存しており、

厳密にはそれを滅ぼした442年が北魏の華北統一である。)

 

この139年に渡る五胡十六国時代は、

淝水の戦いを境にフェーズが大きく変わる。

 

●五胡十六国時代と南北朝時代の六人のキーパーソン

 

五胡十六国時代および南北朝時代は

賈后、石勒、苻堅、拓跋燾(たくばつとう)、宇文泰、楊堅

という六人の人物が鍵を握る。

 

五胡十六国時代と南北朝時代は、

石勒、苻堅、拓跋燾、宇文泰の四人を軸に歴史が動く。

 

この四人が全盛期を迎えると

時代のフェーズが変わる。

 

そして、五胡十六国と南北朝時代の、

きっかけは賈后で、

結末は楊堅だ。

 

五胡十六国時代自体の、

始まりは八王の乱である。

人物で言えば、八王の乱のきっかけを作った賈后が始まりと言える。

そして、五胡十六国時代・南北朝時代の終焉は、隋の楊堅が創出する。

 

賈后から楊堅までを、

石勒、苻堅、拓跋燾、宇文泰という四人の人物が時代を彩る。

 

これがこの時代の、ザクッとした流れである。

 

主に長江を境界線として、

南北対立となる。

南が優位に立てば、黄河線を国境線とする。

北が優位に立てば、長江線を国境線とする。

もちろん、その間を国境線とすることもあり、

それは両大河の真ん中にある淮水(淮河)線が国境となった。

 

基本的に北側の王朝の優位が続く。

 

南側の王朝が優位に立てたのは、

桓温と劉裕の時代のみである。

 

 

五胡十六国時代は、

八王の乱に始まり、

北魏太武帝拓跋燾の華北統一により終焉を迎える。

この後を南北朝と呼ぶ。

 

●石勒と苻堅、異民族王朝の全盛期を創出。

 

この五胡十六国時代という期間、

時代を主導する人物が二人いる。

石勒と苻堅である。

 

石勒は中華において優勢ながらも長江を越えられず、

没する。

ここが最盛期で、その後石勒が建てた王朝後趙は、

衰退していく。

 

石虎の死後後趙は崩壊、

鮮卑前燕、

氐族前秦、

そして東晋の三国時代となる。

 

東晋桓温による攻勢が続くも、

北伐完遂の思いは成し遂げられず。

東晋と前燕が相争う漁夫の利を前秦苻堅が得る。

苻堅は前燕を滅ぼし華北の覇者となる。

 

苻堅は、桓温死後すぐに蜀まで掌中にする。

 

江南に割拠する王朝というのは、

長江の天険に大いに助けられるのだが、

華北の王朝が蜀を領有すると、

王手をかけられた状態になる。

 

なぜなら蜀からは長江を下って、

江南を攻撃できてしまう。

長江の天険を無力化してしまうからだ。

 

華北の文明力・経済力を蜀に投入し、

水軍を作る。

蜀は江南からみて長江の上流に当たるので、

蜀から水軍を一路長江を下ると、

江南はいとも簡単に滅ぼされてしまうのである。

 

水軍を作るというのがセオリーなのである。

 

●司馬炎の討呉

 

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しかし、苻堅は水軍を作らず、

陸路東晋を攻撃する。

苻堅の驕りなのか、それとも水軍という考えがなかったのか。

 

残り江南と荊州になった東晋を総攻撃する。

これが

373年淝水の戦いである。

 

ここで苻堅は大敗する。

ここは石勒や姚襄が先に進めず、

彷徨ったエリアであった。

 

それ以前には曹操や曹丕が何度も

ここを越えようとして孫権に撃退されてきたエリアでもある。

 

 

またしても、

北方の異民族は長江を越えらえれなかったのである。

 

これで、再度中華は争乱フェーズとなる。

 

華北は、鮮卑後燕、羌族姚氏の後秦が優勢も、

群雄割拠となる。

そこを、長城以北で100年近く逼塞していた鮮卑拓跋氏が、

南下。

後燕を亡国に追いやり、一躍中華の一勢力へと進化する。

 

●東晋 淝水の戦いその後

 

一方、江南は東晋はどうか。

 

淝水の戦い大勝を演出した謝安は、

宗族の司馬道子に牽制され、

身動きが取れないまま没する。

 

なお、淝水の戦いというのは、

事実上前秦の自滅である。

淝水自体では戦いらしい戦いはなかった。

日本の源平合戦の富士川の戦いに近い。

 

ただの自滅であり、謝安は確かに総大将として勝つには勝ったが、

果たして彼の力によるところがどれほどあったのかは、

甚だ疑問である。

 

司馬道子は、簡文帝司馬昱の末子である。

司馬昱は元帝司馬睿の末子として長らく宗族のトップにあったが、

この司馬昱のポジションを司馬道子が継いだのである。

 

皇帝集権と反集権という流れが

東晋にはあったが、

淝水の戦いで、陳郡謝氏が名を挙げたせいで、

この争いが激化した。

 

桓温存命中までは、

皇帝集権の方向で進んでいた。

謝氏などの名族たちは桓温により抑制されていた。

 

しかし、桓温が死ぬと、

譙国桓氏を攻撃し始める。

 

桓温の遺志だったのか、

桓温の末弟桓沖(桓温の末子で後継者の桓玄は若年のため後見)は、

中央の争いからうまく撤退。

そのまま、本拠地の荊州へと引き下がる。

 

これにより、

譙国桓氏は荊州の実権は保持したままとなる。

 

桓温の重しが取れた貴族名族たちが勢力伸長。

そうした中の淝水の戦い。

 

謝安の謝氏が突出したのを

宗族の司馬道子が嫌がり、

宗族と貴族名族の争いとなる。

 

こうして、

淝水の戦いの後は、

東晋は、

宗族・貴族名族・桓氏の三つ巴の戦いとなる。

桓温の末子桓玄の簒奪が一つの結末となる。

 

これは劉裕のクーデターにより失敗に終わる。

桓温から桓玄に引き継がれたポジションを

劉裕が継ぐ。

 

●東晋内部の内輪揉めに勝った劉裕。

 

劉裕の基盤は北府軍だが、

軍閥のトップとして権限を握る。

 

桓温と同じ立ち位置の行為を行い、

確実に地歩を固める。

 

北伐、土断法など。

 

しかし、ひとつ違ったのは

劉裕は最早東晋皇帝という軸を必要としなかったことであった。

 

桓玄簒奪の直前に、

政争に敗れた司馬道子の後には、

誰も続かなかった。

 

司馬道子が敗れたことで、

東晋の皇帝・宗族は完全に名声を失ったのである。

 

劉裕は遠慮することなく、東晋からの禅譲を狙い、

420年に実現する。

 

皇帝でも貴族でもなく、

一介の軍人である劉裕が国を奪うのである。

皇帝集権と反集権の対立の結末は、

劉裕という家柄も何もない、人物が皇帝として力を持つことであった。

 

劉裕は宋を建国。


華北は北魏鮮卑拓跋氏が勢力を伸長させる。

 

こうして、

北魏対宋の南北対立の時代へと進むのである。

●参考図書:

 

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

 
魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

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