歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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五胡十六国時代における「中華」とは①

中華統一という概念は何か。

 

 

●桓温が目指した「中華」とは何か。

 

桓温は、

第一次北伐、第二次北伐で、

長安を攻撃し、洛陽を攻略した。

 

長安、洛陽と言われると、

何かすごいなと我々日本人は感じる。

 

何故か。

中国史における

歴史上の都と言えば、

この二つだからではないだろうか。

 

それは、

長安も洛陽も、

漢民族という概念ができる王朝、

漢王朝の都だからだと私は思う。

 

その一つを奪い返した桓温はすごいのである。

 

しかし、これはセンセーションナルだが、

実は足りない。

 

長安と洛陽を取り戻したとしても、

「中華」回復には実は足りないのである。

 

●「中華」の概念は時代とともに変化する。

 

現在のいわゆる中国、中華人民共和国は

非常に広大な領域を持つ。

 

北は内モンゴル、

南は香港、

西はチベット、ウイグル。

東に関しては、

台湾島、尖閣諸島をそれぞれ台湾の中華民国、

日本と領有権を争っている。

 

これは、清王朝の領有エリアを元にしているからである。

 

清王朝の正統な後継者であることは、

中華の国家として非常に大事なことであるので、

清王朝と同じ領域を主張するのである。

 

清王朝の領域=中華と言える。

 

だが、そもそも清王朝は満州族という異民族が

創った王朝である。

 

この王朝のトップは、

満州族の部族長であり、

中華の皇帝であり、

モンゴルのハーンであり、

チベットの大檀家であった。

つまり四つの文化圏のトップであった。

 

実際は清王朝にとっては、

中華圏はその四つの支配領域の一つに過ぎず、

ほかの三つのエリアは清王朝以前は

中華圏ではない、

 

こうした事実があったのだが、

清王朝の後継を争うのが、

中華民国、中華人民共和国という

両方とも漢民族主体の国家であったことからややこしいことになる。

 

清王朝を中華正統王朝とすると、

その領域全てを支配することが中華正統王朝としての

資格になってしまう。

 

これは中華正統を称する政権にとっては、

非常に苦しい要件であるはずである。しかし、

秦の始皇帝以来、このようにして中華領域というのは

拡大してきた。

だから、ある意味やむを得ないのである。

 

中華と呼ばれるエリアがあった。

そこを中華の圏外の勢力が支配した。

そうすると、圏外の勢力が支配していたエリアも

中華圏となる。

 

この繰り返しが中国史である。

 

●中国史上、常に拡大する「中華」圏

 

秦の始皇帝の秦こそ正に典型だ。

 

秦の本拠地関中は中華ではない。

いやそもそも秦の発祥は関中ではなく、

祁山だ。これは関中の外だが、

西周が滅亡した時に秦は関中に侵入する。

 

秦を作った彼らは異民族だ。

しかし、その後秦はほかの戦国七雄を滅ぼし、

中華を統一した。

だから、関中も中華圏となった。

合わせて蜀も明確に中華圏となった。

これは中華文明とは違った文明を持っていたが、

秦が恵文王の時に滅ぼしていた。

秦が中華統一王朝となった時に蜀は中華圏になったのである。

 

一方で、

秦の中華統一時点では、

江南は中華圏のようで中華圏ではなかった。

明確に中華圏に入るのは、

孫権が呉を作ってからだろう。

 

孫権は、中華圏の皇帝として勢力を保っていたためだと思われる。

実態は、

呉王夫差や越王勾践の故事に

倣っているところがある孫権だが、

中華文明に倣うからであろう。

 

この呉を滅ぼさないと、中華統一とならなくなった。

 

これで呉の本拠地江南は中華圏となった。

 

こういう経緯で中華圏は増殖する。

 

この後、

満州、内モンゴル、西域などへ、

中華圏が広がっていくのである。


この辺りはまた別の話になってしまうので、
割愛するが、つまり中華という概念は変化するということである。

 

●五胡十六国時代においてどこを支配すれば「中華」と獲ったことになるのか。

 

当然五胡十六国時代には清王朝はない。

別の概念で五胡十六国時代の人たちは、

「中華」という概念を考えている。

 

繰り返しになるが、

「中華」という概念は変化することが非常に大事だ。

 

時代により概念が異なる。

なぜ異なるか。

 

これは中華はどこなのか、という思想なのである。

 

●「中華」という概念はいつ始まったのか。

 

この答えは、

戦国時代である。

 

楚を除く戦国七雄がそれぞれ、

自身の正統性を主張するために、

自領を含めたエリアを領有する自国こそが、

中華であるという主張合戦を始めたのである。

 

これは、

周王朝の権威が著しく低下し、

周王朝の後を継ぐ存在を意識し始めた、

戦国時代の中期から後期にかけて始まった。

 

楚が除外されるのは、

元々周王朝とは別個の権威として存在しているからである。

 

秦も本当は楚と同じだったのだが、

中華制覇の野心を持ったことから、

秦自身が周王朝の傘下のフリをした。

秦がフリをし始めたのは戦国時代だと思われる。

 

 

 

周王朝の傘下として、

周王朝の枠組を利用して、

中華を統一することを選んだのである。

 

そもそも、

周王朝の後継をどうするのかという意識は、

楚以外の戦国七雄にはあったが、

中華をただ一国が統一するという概念は、

実は秦の始皇帝までなかった。

 

この概念を産み出したのは李斯である。

 

それまでは、

周王朝が天王として諸侯のトップに君臨し、

ほかの諸侯を従わせるというものであった。

 

しかし、

秦の李斯が考えたのは、

秦がほかの戦国七雄を滅ぼして、

全て秦が直轄地として支配するというものであった。

 

その支配の手法が郡県制である。

 

ここで、秦が郡県制を敷いたところが、

中華だという概念がまた一つ生まれる。

 

しかし、秦は上記のように本当に中華なのかという

概念がある。

となると、どこが中華なのかという話になってくる。

 

こうして、「中華」はどこなのかが、

思想になってくるのである。

 

この中華はどこなのか思想は、

秦の後を受けた前漢にも引き継がれる。

 

 

●秦の「中華」認識を意識して、前漢は国を創る。

 


秦の郡県制が急進的過ぎて、

秦末の争乱につながる。

 

これは秦の中華概念が急進的過ぎたとも言い換えることができる。

 

これに対して、前漢は、

楚漢戦争を経て、

歴史上前漢による「郡国制」という落とし所を見つける。

 

これは、郡国制というが、

実態は、

前漢による直轄地を郡県制、

それ以外に諸侯を封じ、それは前漢に従属するというものであった。

 

つまりは、

周王朝のやり方と秦のやり方の合わせ技で、

秦の急進的手法を穏健化させただけである。

 

しかしながら、

前漢は皇帝として諸侯の頂点に立つ存在である。

 

そのため、

中華は保持しなくてはならない。

中華王朝の必要十分条件だからである。

 

前漢は、直轄地として、

関中、洛陽盆地、商王朝の中心地中原と呼ばれる黄河渡河地点は、

当然抑えたのである。

 

郡国制施行の中で、

例えば斉や呉、九江といった地域は、

中華王朝を称するにはどうでもよかったのである。

 

●参考図書:

 

中国史〈1〉先史~後漢 (世界歴史大系)

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五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

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