歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

357年から370年までの前燕、前秦、東晋の三国時代の推移

 

357年からの前燕、前秦、東晋の三国時代の推移。

 

この時代は、慕容恪、桓温、苻堅がそれぞれの個性を活かして、

それぞれが躍動する、面白い時代である。

 

●357年時点

 

・前燕

 

前燕は357年鄴へ遷都。

異民族であることを除けば、中華王朝の条件は出揃った。

黄河以北は掌握しているので、今後は、

黄河以南、及び洛陽方面の攻略に着手する。

 

・前秦

 

前秦は苻堅が天王となる。

前皇帝苻生は弑逆される。

ここで事実上王朝が変わるほどの変化が起きたことになる。

家系が変わるので、

前秦は祖が変わることになる。

ヨーロッパでは王朝が変わるし、

中国でも例えば匈奴漢及び前趙は、

家系が変わったので、王朝名も変わった。

(例:フランスのカペー朝、ヴァロア朝、ブルボン朝)

 

苻堅が前秦天王になったとはいえ、

これは本来は王朝の交代とも言える。

 

当面、内政に注力。内部を固める。

この早い段階で、王猛という逸材を苻堅は手に入れる。

この漢人の逸材により、前秦は急速に胡漢融合が

進むことになる。

 

・東晋

 

東晋は、356年に桓温が第二次北伐で洛陽を奪取。

313年に洛陽を劉曜に奪われてから43年ぶりに洛陽を回復。

東晋はこれで体面を保てるようになる。

 

しかしながら、

第一次北伐で長安は落とせなかった。●長安落とせず。

第二次北伐は洛陽の攻略が精一杯だった。●洛陽のみで帰る

 

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これは完全な戦力不足が原因である。

そもそも桓温は兵を動員できないし、

国家として動員できる兵も少ない。

 

桓温は、本来の目標、

中華(中原といってもいい)を支配する、

前燕の攻略のために、

土断法の実行をすべく、東晋内の内部調整に入る。

 

民衆の支持を背景に、桓温は貴族名族との政治抗争に入る。

 

東晋から見た対外情勢は、

淮水以北、黄河以南を東晋は357年時点では

勢力圏に抑えているものの、不安定である。

 

●前燕と東晋の黄河ー淮水間攻防戦

 

ここには、急進的な軍事国家前燕が黄河以南へ侵入。

次々と奪われながらの、桓温の政治調整であった。

 

この淮水―黄河間の領土争いは、

前燕が優勢であった。

 

東晋についた勢力も所詮は日和見。

前燕が騎兵を中心に遊撃戦を行うと、

早々に陥落する。

東晋は、淮水以北の領域を次々と失う。

華北へ出る重要な水路である、

彭城、下邳、淮陰、刊溝だけは守り切ったが、

これ以外は、結局前燕に奪われてしまうのである。

 

●前燕、破竹の勢いで南下。

 

 

358年、泰山太守の諸葛攸(しょかつゆう)が前燕の東郡を攻撃。

逆に負け込み、大幅に領土を奪われる。

359年には、

戦国時代の梁(魏)・宋の領域を管轄していた謝万は

友軍の郗曇(ちどん)が撤退したことにより、

慕容恪に脅威を覚え撤退。

許昌、潁川、譙、沛を放棄。

慕容恪はこれらを取り、

河南にも大幅に領土を持つことになる。

 

●前燕皇帝慕容儁が早死。慕容恪摂政。

 

このチャンスに前燕皇帝慕容儁は、

東晋に総攻撃を掛けるべく、鄴に大量の兵を集める。

しかしながらこのため疫病が流行、これに皇帝慕容儁も罹ってしまうのである。

 

359年12月慕容儁危篤、360年1月崩御。

このパターンは、実際には既に年末に死去していた可能性も高い。

魏の曹叡も年末に崩御していたが、発表は翌年だった。


慕容儁は庶弟慕容恪に皇位を継がせようとするも、
慕容恪が拒否。

太宰・録尚書事・行周公事として、
後継皇帝慕容暐を輔弼することとなる。

太宰の官名は西周に由来。

慕容恪は、周公旦にならい、幼年の成王(この場合は慕容暐360年時点で10歳)を輔弼したごとく、
政務を司ることを決めた、という思想の表れである。

「行周公事」とは、
周公のことを代行するという意味である。

 


●自身を周公旦になぞらえた慕容恪、364年洛陽攻略するも367年に死去。

 

このようにして、事実上の摂政となった慕容恪。

361年には野王の呂護を攻略。
363年8月からは洛陽攻略に取り掛かる。

調略を進め、364年3月に洛陽を総攻撃。
洛陽を落とす。

366年には慕容恪は慕容評とともに慕容暐に政権を返還することを
上奏するも許されなかった。

367年6月慕容恪は死去する。


●慕容恪の死を機に桓温が第三次北伐。

 

慕容恪の死で、

前燕が混乱する。

 

慕容恪を継いで、

皇帝の輔弼に当たる慕容評。

だが慕容評には

前燕をまとめ上げる力がなかった。

 

皇帝慕容暐はまだ17歳。

 

前燕はにわかに動揺する。

 

そこを桓温が狙う。

 

土断を行うも、

二度の東晋皇帝の崩御。

若死にである。

 

および、東晋国内の貴族名族勢力の、

桓温への反発で、

長らく足止めを食っていたが、

ようやくここで動くことができる。

 

●東晋の反撃369年桓温第三次北伐、前燕慕容垂に大敗。

 

桓温は、

第三次北伐で、前燕を攻撃。

 

得意の電撃戦で、

慕容評および前燕を狼狽させるのに成功。

 

洛陽盆地の割譲という破格の条件で

前秦に援軍を求める。

 

しかし、この中で

冷静、というよりも慕容評への反発心から、

桓温の裏を取った男がいた。

慕容評の甥、慕容恪の弟、

慕容垂である。

 

桓温の裏を取り、退路を絶って、

桓温を敗北させる。

 

桓温は黄河北岸に出たが、

黄河の南岸を抑えて仕舞えば、

桓温は退路を断たれてしまうのである。

 

急ぎ撤退したところを、慕容垂は攻撃。

桓温は敗退する。

 

慕容垂の戦略が上手かったのであるが、

本来は冷静に対応すれば

対処できるところを、

桓温のこの思いっきりの良さが数々の戦勝を生んできた。

だが、桓温は初めて負けたのである。

 

●前燕慕容垂が前秦に亡命、370年前秦は前燕を攻め滅ぼす。

 

前燕はこの後、

慕容垂は慕容評と相入れず、

慕容垂は前秦へ亡命。

 

前秦の王猛は、

洛陽接収の名目で、

出兵。

そのまま前燕を滅ぼす。

370年のことである。

 

前秦、華北の覇者と成る。

 

 ●参考図書:

読む年表 中国の歴史 (WAC BUNKO 214)

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