歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

桓温の死とともに漢民族の華北回復の夢永遠に破れる。

 

 

●華北異民族の脅威。

 

369年桓温、第三次北伐失敗。

桓温にとっては、生涯の夢が敗れた瞬間である。

東晋にとっては、華北回復の最後のチャンスを失ったタイミングであった。

 

こののち、純粋に漢民族と呼べる王朝の、華北支配という機会は、

永遠に失われる。

 

370年前秦苻堅が前燕を滅ぼし、華北統一。

 

実は、華北統一の概念は、様々だ。

他にも涼州や代などが残っていたら、

華北統一ではないという考え方もある。

 

しかし、西周以来後漢末期までは、

関中と河北、特に中原と言われる

黄河渡河地点の最先進エリアを抑えることが

中華の覇者の条件であった。

曹操や石勒はこの両エリアを抑えて、

圧倒的な強者となった。

 

本来はこれで中華統一だったが、

三国時代に孫権が呉に拠って勢力を維持。

 

三国志では、

これを倒さなければ中華統一とならなくなった。

 

呉を無視しても中華を名乗れたはずの曹操。

そうさせなかったのは孫権およびその政権が

無視できないほどの存在だったことの証拠である。

 

孫権の呉に加えて、劉備の蜀はそもそも、

中華とは別の文化を持っていた。

中華の覇者は無視できるところを、

呉と蜀がそうはさせなかったから、

中華は広がった。

 

●本来、江南は中華ではなかった。

 

そもそも文化が異なる江南エリア。

言語からして違う。

現代でも挨拶は、北京はニイハオ、上海はノウホウだ。

 

 

ここを攻めるには船が必要で、

華北の騎馬が使えない。

だから長江が

地理上の境界線となる。

船で渡る必要があるからだ。

 

長江は後に

文化の隔たりをもたらす。

文化境界線となる。

 

だが、これは新時代の話で、

長江の南、江南の存在感が大きくなる前は。

そもそもの華北統一とは、いや中華統一とは

関中と中原を確保することなのである。

 

前秦苻堅はそれを成し遂げたことで、

王朝としての正統性および圧倒的な力を持つようになる。

東晋からすれば、

圧倒的に不利な状況になることを示している。

 

北伐どころか、

前秦苻堅から侵略される可能性も大いにある。

この状況で桓温は皇帝司馬奕を男色として弾劾し、

廃する(廃帝)。

 

東晋は長らく幼帝が続き、

桓温が輝かしい軍功を背景に力を持っていたが、

第三次北伐の失敗で、対抗勢力の貴族名族が

力を持ち直していた。

これに対抗するために、

皇帝のトップダウンとして国難に備えようとした。

 

●簡文帝司馬昱、毒殺の疑い。

 

371年簡文帝即位。

372年簡文帝崩御。52歳。

 

これなのだが、詳しく調べると、

司馬昱は陽暦の372年1月に即位、9月に崩御している。

たった九ヶ月間である。もちろん自然死だったのかもしれない。

しかし、何かの意図が働いたのではと疑ってもおかしくはない状況である。

 

親桓温と反桓温の両勢力が激しく争う中、

親桓温側に流れ上なってしまっていた司馬昱の即位。

これに対して、

反桓温の貴族名族が非常手段をとってもおかしくはない状況なのである。

 

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簡文帝司馬昱と桓温サイドは、粛清を行っている。

恨みを買って当然の状況なのだ。

簡文帝の即位後、

まず簡文帝の兄司馬晞の追放。

そして、

桓温を支えてきたが北伐の中で対立するようになった、

潁川庾氏の庾希が反乱を起こすも鎮圧。

 

こうした状況の中の簡文帝急死なのである。

 

孝武帝司馬曜が12歳で即位。

簡文帝は52歳で崩御であるが、特段早死にというわけでもない。

ただ、孝武帝は、

簡文帝臨終の際に皇太子に立てられている。

皇太子はいなかったのであり、

簡文帝の崩御自体が、急なことであったというのを暗示している。

 

簡文帝の遺詔は、桓温を周公に模し、摂政とすることだった。

これは前燕慕容恪と同じである。

 

この後、桓温が禅譲を迫り、

謝安らがそれを妨げたという話が生まれる。

 

桓温が事実上の摂政とはなったが、

時間がもう足りなかった。

 

373年桓温が死去。太后褚蒜子(ちょさんし。父は褚裒(ちょほう))が臨朝執政。

元の幼帝ー皇太后称制に戻る。

このやり方は、

桓温が最高権力者となる前の東晋のやり方であった。

 

●謝安は桓温の末弟桓沖と手打ちをして最高権力者へ

 

376年に皇太后は政務を孝武帝へ返還。

ここで実権を謝安が握るようになる。

 

これができたのは、

桓温の末弟で、後継者桓玄の後見人桓沖が

荊州へ去ったからである。

 

桓沖は桓温の16歳年下の末弟である。

桓沖が物心ついた時には父は既に蘇峻の乱で亡くなっていた。

家長の桓温が桓玄の父がわりであり、

この信頼関係は非常に強固であった。

 

 

桓温が北伐を行う際には、

必ず重要な任務を与えられるのが桓沖であった。

 

桓温の信頼の篤かった桓沖は、

桓温亡き後謝安ら貴族名族勢力の反桓温派との

手打ちを目指していた。

 

桓沖は軍権を握りながら、

建康から出鎮し、徐々に建康から離れる。

 

この376年は謝安が京口にいた桓沖から

徐州刺史の任を解いた年である。

 

これで桓沖は元々の本拠地荊州に帰ることができた。

それも軍権を持ちながら。

つまり桓沖は謝安と手打ちをしたのである。

 

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桓温の後継者桓玄は369年の生まれで、

376年時点ではまだ7歳。

勝負に出られる年齢ではない。

 

桓温に後を託された桓沖は、

見事軍権を保持しながら、

本拠地荊州に帰還。

 

桓氏の勢力を守りきるのである。

 

謝安は、桓温亡き後の桓氏勢力の粛清はできないまでも、

建康から追い払うことには成功した。

 

こうして謝安は実権を握る。

 

●参考図書:

 

中国歴史地図集 (1955年) (現代国民基本知識叢書〈第3輯〉)

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