歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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幽州の歴史③ 幽州の馬が八王の乱の行く末を左右する。

 

 

 

いよいよ幽州が中華の歴史に

直接関わるシチュエーションが生まれる。

 

八王の乱である。

 

●幽州の王浚、八王の乱の行く末を左右する

 

この大乱において、

幽州の軍事力を握る王浚が

乱の行方を左右するほどの影響力を発揮する。

ここから幽州は中華の歴史において、

欠かせない存在となっていく。

 

▼八王の乱は、

以前私もブログで記載したので

下記をご覧いただきたいが、

簡潔に説明する。

 

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●八王の乱は賈后派と反賈后派=亡き皇太子派の争い

 

広義の八王の乱は、

290年に西晋武帝司馬炎が崩御してから始まる。

後継者恵帝が暗愚だから、これが不安定要因として、

宗族がそれぞれ権力争いをし始める。

建国の元勲賈充の娘で恵帝の皇后賈后が

その政治力を持って、権限を握る。

 

これで一旦は政治的不安定さは収まるものの、

賈后自身に男子がいなかったことで、

再度争乱が起きる。

 

これが300年でここからが狭義の八王の乱である。

 

賈后が皇太子司馬遹と対立。

司馬遹は賈后の実子ではない。

賈后は恵帝の皇后であることのみが権力の源泉である。

実家は他家からの養子が継いでいて、

賈氏の事実上の当主は賈后であった。

 

実家があてにならない。

賈后は皇后であることが権力の源泉である。

恵帝死後皇太子により権力を抑制されたらそれで終わってしまう。

 

そう考えると、

皇太子司馬遹の、賈后に対する反発はリスクでしかない。

幸いにも

皇太子の父である皇帝恵帝の、賈后に対する信頼は篤い。

なぜなら、恵帝は、

賈后のお陰で皇帝になれたと思っているのだ。

恵帝は暗愚と言われるが、

これは歴史的評価であって、

彼はただ優しいだけのおぼっちゃまである。

 

賈后は皇太子司馬遹を暗殺。

これで狭義の八王の乱が勃発。

賈后派と反賈后派=亡き皇太子派

という構図で、内乱が始まる。

 

●「并州」と「幽州」が争う八王の乱

 

この狭義の八王の乱において、

事を有利に進めたのは、

鄴を押さえた者である。

鄴は曹操以来の軍都である。

政治的にも副都の扱いであった。

 

これに対抗するために、

引っ張り出されたのが、

并州と幽州の軍事力である。

簡単に言えば、「馬」である。

 

戦いを有利に進めるためには、軍事力を増強する「馬」が必要であった。

馬は我々日本人の感覚で言うと、

「少し寒いところ」でないと、育たない。

平安末期の源平合戦時に、

奥州藤原氏が騎兵を擁して高い軍事力を保持していたことを

思い出して欲しい。

奥州は馬の産地であった。

 

あのぐらいの寒いところは、

中国で言うと、

上党とか大同とか平陽とか

の并州であり、北京のある幽州なのである。

余談にはなるが、

これらが全て春秋時代の覇権国晋の本拠であり、

馬という軍事力の源泉が影響を与えた歴史は長いことが窺える。

 

并州は司馬越の弟司馬騰が、幽州は太原王氏で

西晋建国の元勲の私生児王浚が

それぞれ都督并州諸軍事、都督幽州諸軍事として、

軍権を握っていた。

 

鄴=司馬穎=皇太子派

并州=司馬越=賈后派

幽州=王浚=賈后派

という構図で戦う。

 

司馬越が幽州の王浚を陣営に引っ張り込み、

司馬穎を滅ぼす。

しかしながら、八王の乱において、

各陣営にわかれて戦った余波は非常に大きく、

司馬越が勝利しても中華は収まらなかった。

こうした中、

王浚は自立へと動く。

 

●中華の権力争いに大きな影響を与え始める幽州

 

洛陽や鄴と言った西晋の中心地が乱れる中、

幽州は疎開地ともなった。

ただの寒い田舎が、

馬の産地という強みを活かして、

中華文明の歴史に影響を与え始めたのである。

 

王浚は、

鮮卑段部と匈奴宇文氏と婚姻関係を結び、

騎兵という軍事力を手に入れていた。

 

曹魏以来西晋と結びつきの強い、

後に前燕・後燕を建国する鮮卑慕容部は冷遇していた。

 

 

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鮮卑慕容部は西晋の祖司馬懿が遼東討伐をする際、

積極的に協力をしていた。

 

その後の遼東統治にも貢献したため、

ほかの諸族から嫉妬を買っていた。

王浚は異民族統治のセオリー、分断政策(ディバイディングポリシー)で

幽州から遼東を掌握した。

 

●王浚没後、幽州と遼東が分断。

 

このようにして王浚は、

八王の乱以後、まとまりのある強い勢力を誇った。

しかし、南からやってきた石勒の奇襲により

滅ぼされることとなる。

 

(石勒は上記の構図だと、

皇太子派の司馬穎陣営の軍卒出身である。)

 

王浚の油断もあったが、石勒の手段を

選ばないやり方も大きかった。

石勒は王浚を騙し討ちをした。

だから、王浚を抹殺したとは言え、

王浚支配下の幽州から遼東が全て手に入ったわけではなかった。

 

王浚系の鮮卑段部が、

西晋の残党劉琨と結んで対抗する。

最終的に石勒はこれらを滅ぼし幽州は手に入れるが、

遼東までは手を伸ばせなかった。

遼東は、反王浚の鮮卑慕容部が

江南に逃げた西晋=東晋と結び、

石勒に対抗。

 

石勒の後を継いだ石虎は

この遼東・鮮卑慕容部を攻撃するも、

屈服させることができなかった。

 

こうした中、

鮮卑慕容部は逆に遼東を中心に、

遼西は段部などを滅ぼし、

遼東から見て東の高句麗を服属させる。

幽州が中華の領域に完全に入った代わりに、

かつての幽州のような存在に、

この遼東・遼西エリアがなっていくのである。

幽州はかつての鄴に近い存在へと今後変化していく。

 

●参考図書:

 

中国歴史地図集 (1955年) (現代国民基本知識叢書〈第3輯〉)

中国歴史地図集 (1955年) (現代国民基本知識叢書〈第3輯〉)

 

 

 

世界史年表・地図(2018年版)

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中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

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魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

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