歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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徙民政策④最大限活用する前秦と北魏。

徙民政策を完成させた後趙と前燕。

 

 

これを受けて、

前秦と北魏は徙民政策を最大限活用する。

 

●前秦苻堅は滅ぼした敵対勢力を全て長安へ移住させる。

 

次は前秦だ。

これは非常にわかりやすい理由が二点ある。

 

・前秦の人口対策

 

彼ら前秦は、

370年に前燕を滅ぼして、

前燕の民を関中に移した。

 

亡き前燕の指導者、皇帝慕容暐や慕容垂とともに、

前秦の本拠関中に移して、

管理したのである。

河北で鮮卑慕容部が勝手なことをしないように、

管理が行き届く関中へ強制移住させた。

河北は代わりに前秦の宗族を派遣することとなる。

 

石勒、石虎の徙民政策により、

著しく人口を減らしていた関中。

かつての帝都であった関中・長安は地政学的な利点は

変わらず持ち続けているものの、

地域的な力は著しく低下していた。

 

河北はその分大幅に国力を伸ばしていた。

 

ここで苻堅による関中へのシフトが起きる。

 

前秦はこうして自国を増強する。

 

・前秦苻堅の儒教的発想

 

苻堅は自身が皇帝として徳を積めば、

胡漢の諸族が自分に従うと考えていた。

 

徳を施すということにこだわっていた苻堅は、

打ち滅ぼした敵対勢力に対して、

非常に寛容であった。

 

苻堅の寛容な態度が、敵対勢力を懐柔し、

自分を担いでくれる。

 

そう考えていた。

だから敵対勢力の君主も含めて、

全て自身の本拠地長安に

連れてくるのだ。

 

これが俺の徳の賜物であると。

 

苻堅にとってこの集大成が

淝水の戦いだったが、現実はそうはいかなかった。

 

 

●北魏の華北統一で大規模な徙民政策はひと段落する。

 

この徙民政策は、

北魏の華北統一の実現とともに一旦落ち着く。

 

北魏は395年に後燕に参合陂の戦いで敗れるも、

戦略的には勝利した。

北魏は後燕の冊封国だったがこれを機に自立する。

 

一方、この戦いの帰路、後燕皇帝慕容垂は崩御する。

慕容垂の死ののち、後燕は崩壊することとなる。

これに乗じて、北魏は後燕を滅ぼす。

 

代に本拠を置く北魏は、

後燕の民40万人を本拠代へ強制移住させる。

 

それは国力増強のためであり、

また占領地で勝手なことをされないためである。

北魏は元々後燕の傘下だったので、

これは徹底的に行なっている。

 

この北魏が最終的には約40年後の439年に華北を統一するので、

これで大規模な徙民政策は一旦終焉する。

 

 

●徙民政策で民族シャッフルが進んだ華北

 

北魏が後燕から連れてきた40万人は、

最早祖先がどこが出身地なのか、もうわからなかったのではないか。

 

関中なのか、それとも鮮卑の居住地だったのか、

それとも河北土着の漢民族だったのか、

もう誰が誰だかこの時点ではわからない。

 

気付いたら、

民族はシャッフルされ、その由縁は辿れなくなった。

 

異民族が主体だったから成し得たこととであろう。

漢人は、漢人とそれ以外を分けるが、

異民族にとっては、ただの人間という財産でしかないのだから、

当然である。

 

異民族にとって、

漢人は農作業や手工業ができる人間という財産でしかない。

遊牧民は農業ができないのだ。

漢人を捕まえて、自領に連れて生産させれば、

自国が豊かになる。

人間とともに技術移転もできるのである。

 

その人間が、

漢民族なのか、異民族なのかを判断するには、

風貌とその人間の持つ技能ぐらいのものであった。

 

ヒゲが濃ければ異民族、

馬に乗れなければ漢民族だ。

 

徐々に民族のシャッフルが進み、

差異がなくなっていく。

 

これを総仕上げするのが、

北魏分裂後の宇文泰である。

 

●参考図書:

 

中国史〈2〉―三国~唐 (世界歴史大系)

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