歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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徙民政策⑤の集大成・宇文泰の「関中本位政策」

さて、徙民政策の結論である。

徙民政策の集大成は宇文泰が作る。

 

曹操、曹丕以来の徙民政策を

大規模な国家戦略へと変化させ、後の隋唐の繁栄を創出する。

 

●徙民政策の総仕上げは宇文泰である。「関中本位政策」

 

北周の事実上の祖、

宇文泰こそが、この徙民政策の総仕上げを行う。

陳寅恪が唱えた、関中本位政策である。


宇文泰の漢人側近、蘇綽(そしゃく)の進言を受けて実施。

これは、胡漢融合政策の一つであり、

河北の高歓に対して劣勢の関中・宇文泰陣営の防衛策でもある。

 

異民族も漢民族も、

とにかく本拠関中に民を集めると言うものだ。

人口、経済の面から劣勢の宇文泰は関中に

民を集中させ、

均田制の再整備を行い、国力を高める。

宇文泰の類稀な軍事的才能もあったが、

関中本位政策、ある種の選択と集中作戦は功を奏した。

これは隋唐にも引き継がれ、

唐太宗の時には天下の大半の兵士が関中に集中していたとされる。

ここに至るまでの経緯を話す。

 

●北魏孝文帝の漢化政策から北魏の東西分裂へ


まずは北魏の崩壊である。

 

北魏は、孝文帝のもと、

漢化政策を取る。

 

〇漢化政策を実際に行ったのは馮太后

 

実際に、これを行なったのは、

馮太后である。

北魏は何人か馮太后がいるので、

正式に言うと、文成文明皇后、文成帝の皇后で、

孝文帝の太皇太后である。


諸説あるが、

私はこの馮太后が孝文帝の実母と考えている。

 

〇馮太后が異民族風習を恥ずかしいと思ったのが漢化政策のきっかけ

 

異民族の風習であるレビラート婚(漢語では、蒸する、という)

のために恨みを持って、

献文帝を毒殺、そして漢化政策を推進する。

ここであの武勇に優れた鮮卑拓跋氏は

初めて自身を中華文明の視点で見ることになった。

儒教的観点から見れば、

異民族の鮮卑拓跋氏がやっていることは

恥ずかしいことになる。


上記のレビラート婚もそうである。

秩序立っていない弱肉強食主義もそうである。

兄弟間の争い、一族間の争いは、孝道、悌道に反する。

儒教的教育を母馮太后から受けた孝文帝は、

自身の出自を恥と考えた。

異民族が初めて自分たち自身を恥ずかしいと考えたのである。

パラダイム転換がここであったのだ。

 

漢化を推進する北魏。

帝都を代の平城から洛陽へ遷す。

そして、異民族の姓、拓跋を捨て、元とする。

 

〇打ち捨てられた異民族エリートの六鎮

 

旧都平城の、柔然を始めとした北方異民族の備えである、

六鎮は見捨てられた。

 

それまでは北魏にとって一番の脅威であった北方異民族の備えである

六鎮は武官の栄誉であったが、漢化政策の中で打ち捨てられた。

帝都が洛陽になった今としては、

ただの辺境の地でしかない。

 

ここ六鎮から出てきたのが高歓(懐朔鎮)と宇文泰(武川鎮)である。

 

高歓は北魏の実権を掌握、これに反発した北魏皇帝を擁して

宇文泰が関中へ逃亡。

こうして北魏は東西に分裂。

高歓が実権を握る西魏と宇文泰が実権を握る東魏に分裂した。

 

●宇文泰の西魏は東魏の高歓に対して劣勢。

 

東西に分裂したといえども、

高歓の東魏、のちの北斉の方が圧倒的に有利だった。

 

 

北魏の都洛陽は北魏東西分裂の国境線となり荒廃したが、

五胡十六国時代から東魏の河北が中華の中心地であった。

 

関中は衰退。

 

東魏の侵攻に対して宇文泰は何とか撃退したものの、

国力の劣勢は変わらずであった。

 

●宇文泰の対抗策が「関中本位政策」 と異民族回帰策

 

そこで宇文泰が行ったのが、

関中本位政策である。

 

他地域を捨てて、

とにかく民を関中に徙す。

 

そして宇文泰は、

ここで鮮卑、つまり異民族視点の国家造りを行う。

 

北魏や北斉のように漢族視点での国家ではなく、

鮮卑、異民族主体の国家とする。

 

姓も異民族、

位階の順序も「1」が最上ではなく、最下位にするほどの徹底ぶりだ。

 

漢族も異民族もない。

全て異民族だ、というのが宇文泰の発想である。

 

北魏、北斉に対するアンチテーゼである。

異民族を恥とした北魏。

 

それ以来の異民族が漢民族に抱くコンプレックスを背景に、

原理主義に立ち戻ったのが宇文泰であった。

 

 

 

漢族も異民族もなく、とにかく関中に集める。

それが宇文泰の発想であった。

 

●宇文泰の「関中本位政策」は曹丕の四方を定めて中華を確定するのと同じこと。

 

これこそが名前は変わっているが、

曹操・曹丕の徙民政策と同じである。

 

 

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曹丕は中華の四方を定めてその中にこそ民は居住すべしと定めた。

辺境にいる民はわざわざこの内側に強制移住させた。

 

目的は黄巾の乱以降の人口減に対する集住作戦である。

また辺境の民が敵対国へ裏切らないための国防視点からのものでもあった。

 

まさにこれは宇文泰の意図と、曹丕の意図は同じなのである。

曹丕のこの作戦はあたり、

時が経つほど二次関数的に人口が増え、

他の呉蜀を圧倒した。

 

宇文泰は劣勢だったが、

この関中集住という徙民政策により、

国家統制に成功。

 

北斉を滅ぼすこととなる。

 

一つだけ曹丕と宇文泰が異なったのが、

これも胡漢融合策の一つとしたことである。

 

地縁を排除し、

異民族も漢民族も関中に徙した。

 

北周が北斉を滅ぼしたのちすぐに、

楊堅が禅譲を受ける。

 

楊堅は漢化を志向したので、

これで情勢が落ち着く。

 

極端な漢化、異民族化で揺れ動いたが、

楊堅の漢化で、

胡漢融合が収束するのだ。

 

●隋唐の栄華の成功要因のひとつが、「関中本位政策」

 

そして、北周の成功要因であった、

関中本位政策は隋唐でも継続された。

 

この徙民政策はうまくいったのである。

 

則天武后が関隴軍団の影響を嫌って洛陽へ遷都するが、

後に長安へ戻る。

一時のことであり、まだ大枠は変わらなかった。

 

しかし玄宗の時、

節度使に力を持たせ、

関中への集中は終わりを告げる。

 

玄宗は中華世界を掌握したのであり、

兵力を必要しなかった。

 

この辺りは西晋の司馬炎が常備兵を削減したのに似ている。

 

天下を掌握したのだから、蔑むべき武力はいらないのだ。

 

これが仇となって大乱が起きるのは、史実の通りである。

 ●参考図書:

 

中国史〈2〉―三国~唐 (世界歴史大系)

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中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

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