下記の、先日の「謝安批判論」でも述べたが、
謝安は取り立てて何か優れた業績をあげているわけではない。
桓温をこけ落とすために、
謝安は持ち上げられただけであり、
謝安自身に評価すべき事績は見当たらない。
淝水の勝利は苻堅の自滅に近い。
そして
東晋の勝因は桓沖の荊州固守である。
「中華の歴史05 中華の崩壊と拡大」p129ー130にかけての文章を引用をする。
丸数字ごとに反論の余地がある。
※下記の文章が悪いというのではなく、
これが謝安に対する歴史的な定評である。
論調は王道であることは強調したい。
※丸数字は引用者の追記である。
「①
ところが、武勲を背景にして東晋の実権を握り、
北来の人々を江南の戸籍につける土断の実施など内政の改革に努めるさなか、
365年(正確には364年。引用者注)鮮卑族が建国した前燕に洛陽を奪われるという事態が生じた。
そのため桓温は再び北伐を敢行するが、今度は一敗地にまみれ、
かろうじて徐州に帰還したものの、かえって鮮卑族の前燕、
氐族が建国した前秦の南侵を生み、
その勢威を大きく傷つけられることとなってしまった。
②ここに至り桓温は王朝簒奪を急ぐが、
このとき東晋を救ったのが東晋後半期の名宰相である謝安であった。
謝安は陳郡陽夏の出身の名族であり、
若くして王導に知られたほどの人物であったが仕官せず、
会稽にあった別荘で書聖として著名な王羲之や老荘思想に基づく
清談仏教の実践者として知られる仏僧支遁などと交わり、
③
四十歳を超えて桓温の軍府の副官(司馬)となった人物である。
桓温も深く彼の才能を愛し推挽に努めたが、
謝安自身は桓温の禅代(引用者註。代【=王朝のこと】をゆずる。禅はゆずるの意味。)に
対して反対であり、
④
禅代を目指し桓温に傀儡皇帝として擁立されていた簡文帝が
崩御する際に、
東晋を守るため遺詔をもってその位を桓温にではなく、
簡文帝の子である孝武帝に伝えしめるという奇策に出る。
この直後、桓温は重病に罹る。
そこで、
謝安は、桓温の死が近いことをも予想しつつ、
禅代の
期日の引き延ばしをはかった。
一族誅滅を招きかねない判断であるが、
三七三年、桓温はその野望を遂げることなく死去することとなったのである。
⑤
こうして
桓温没後の朝政は、東晋をその滅亡の瀬戸際から救った謝安によって
統べられることとなった。
彼の施政は王導の再来ともいうべき面を持っており、
その方針は諸勢力との均衡をとり、寛治に努めるというものであった。
⑥
そのため、
桓温亡き後の荊州の軍権は桓温の一族の桓轄や桓沖に委ね、
朝廷と西府との争いが内乱に発展し、
いたずらに東晋の弱体化を招くことを慎重に避けるという
老練な対応を示した。」(引用文終了)
上記引用文の①から⑥の部分に関して、
全て反論ができる。
これらは全て中華正統論から来た論説である。
この論説を作ったのは、
皇帝、というよりは、中華社会を事実上指揮する
のちの貴族名族たちである。
謝安は、後世の貴族名族たちの祖であり、
英雄である。
桓温は後世の貴族名族たちにとって、
許されざる存在である。
●引用文を受けての、6つの謝安批判。
六点の謝安批判を羅列する。
①土断が遅々として進まなかったのは桓温のせいではない。
②清談に耽っているのは貴族趣味で政治家としての資質とは関係がない。
③桓温の司馬と言えば聞こえはいいが、ただの陪臣である。
④桓温は禅譲を考えていない。
⑤謝安が全権掌握したのは桓沖との妥協である。
⑥謝安が桓氏との衝突を避けたのではなく、
桓温の遺命が謝安に全権を取らせたのである。
●参考図書: