歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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謝安を6つの視点から批判する④〜謝安の「無為自然」〜

さて、この

「謝安を6つの視点から批判する④」では、

 

下記引用文の④⑤に関して、

謝安批判を展開したい。

 

 

●引用文 ④と⑤のパート

 

繰り返しだが、

「中華の歴史05 中華の崩壊と拡大」p129ー130にかけての文章を引用をする。

丸数字ごとに反論の余地がある。

 

 

中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

 

 

※下記の文章が悪いというのではなく、

これが謝安に対する歴史的な定評である。

論調は王道であることは強調したい。

※丸数字は引用者の追記である。

「④

禅代(引用者註。代【=王朝のこと】をゆずる。禅はゆずるの意味。)を

目指し桓温に傀儡皇帝として擁立されていた簡文帝が

崩御する際に、

東晋を守るため遺詔をもってその位を桓温にではなく、

簡文帝の子である孝武帝に伝えしめるという奇策に出る。

この直後、桓温は重病に罹る。

そこで、

謝安は、桓温の死が近いことをも予想しつつ、

禅代の

期日の引き延ばしをはかった。

一族誅滅を招きかねない判断であるが、

三七三年、桓温はその野望を遂げることなく死去することとなったのである。


こうして
桓温没後の朝政は、東晋をその滅亡の瀬戸際から救った謝安によって

統べられることとなった。

彼の施政は王導の再来ともいうべき面を持っており、

その方針は諸勢力との均衡をとり、寛治に努めるというものであった。


そのため、

桓温亡き後の荊州の軍権は桓温の一族の桓轄や桓沖に委ね、

朝廷と西府との争いが内乱に発展し、

いたずらに東晋の弱体化を招くことを慎重に避けるという

老練な対応を示した。」(引用文終了)


 

●④の反論〜桓温は禅譲を狙っていない〜

 

謝安は桓温の禅譲を食い止めた、

先延ばしにかかったとされる。

そもそも急な謝安の登場で、まさに救世主がごとく、

救国の英雄として描かれることが明らかに不自然であることは

とりあえずここでは置いておく。

 

まず、桓温が擁立した皇帝は50歳を超えた司馬昱である。

これで桓温が禅譲を狙うなどということはあり得ない。

 

禅譲は幼帝を擁立して行うのがセオリーである。

わざわざ若い皇帝を廃して、桓温は司馬昱を擁立したのだ。

 

本当に桓温が禅譲を狙うのなら、

晩年の劉裕のように、若年の皇帝を廃して、

さらに若年の皇帝を据えるべきである。

 

司馬昱は

曹丕に禅譲をした後漢の献帝とは異なり、

長らく桓温と組んで、政権を担っているのだから、

わざわざ自ら歴史に汚名を残すようなことはしない。

 

前後の状況から見て、

桓温が司馬昱を皇帝に擁立したのは、

第三次北伐の失敗、およびその後の前秦による華北統一に備えるためである。

 

 

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桓温は失策をしたのだから、

人心を失うのは避けられない。

この状況で、禅譲ができると思う人間はいない。

 

前秦の華北統一という大きな脅威の前に

東晋はまとまりがつかなくなった。

桓温の権威が下がり、

反桓温派が動き出したのだ。

 

前秦というわかりやすい脅威の前に、

内輪揉めを始めたのである。

 

桓温は当然猛批判の的にされた。

北伐は無謀だった、皇帝を傀儡にして専権を振るっている、

どうとでも言いようがある。

 

東晋がこのように混乱する中、

冷静に華北の前秦の脅威を強く感じていたのは桓温だった。

 

混乱する東晋を収拾して華北の脅威に備えるためにはどうするか。

 

事実上機能していない、のちに海西公と呼ばれる現皇帝を廃して、

皇帝としての実態を作り上げる他ない。

 

それが司馬昱擁立であった。

 

謝安はこうした動きに対して反発していたに過ぎない。

 

謝安は一度は桓温の副官になったくせに、

後に離れて桓温の足を引っ張ったのである。

 

桓温の禅譲を食い止めるも何も、

桓温は禅譲を意図していないのだから、

謝安の救国はでっち上げである。

 

●⑤の反論〜桓温が死んですぐに謝安が政権を取ったわけではない。〜

 

謝安は桓温の禅譲を防いだから

その後政権を担ったとある。

もしそれが事実なら

謝安は桓温死後すぐに政権掌握するはずだが、

それは事実ではない。

まずは

皇太后称制であった。

 

これだけでも謝安の当時の存在感がそこまででもなかったことや、

桓温の禅譲がなかったことがわかる。

 

皇太后の存在が機能するだから、

そう易々と禅譲が実現するわけもない。

 

むしろ桓温が遺命として皇太后称制進言していた可能性すらあると私は考える。

この皇太后、褚太后は、

桓温が強い権力を握った期間にすでに二度称制をしている。

 

宗族トップの司馬昱とともに、

桓温と協調した人物なのである。

 

そして、

桓温の事実上の後継者、

桓温の末弟桓沖は建康に健在であった。

376年に桓沖が建康を撤退し

荊州に戻って始めて謝安は政権を取る。

これも、桓沖側からの妥協案であり、それに謝安が乗ったのだ。

そしてこの妥協案すらも桓温が死後を案じ、末弟桓沖に託した

遺命の可能性が非常に高い。

 

▪️桓沖について

 

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・謝安は王導と並び称される時点で何もしていないことになる。

 

 

また、上記の文章では、王導と謝安を並び称している。

王導、謝安こそが、貴族名族の代表的人物であることは全く間違いはない。

 

しかし、王導の実績と言うが、

一体それは何であろうか。

 

王導は族兄の王敦を裏切って瑯琊王氏のトップとなった。

その論功行賞で、司徒になるも、当時の最高権力者は外戚庾亮であった。

 

王導は、実際に何もしてない。

 

北伐推進派で法家として皇帝集権派である、

庾亮に対して、王導は保守的だと言いたいところだが、

何もしていないのだからそうとも言えない。

 

王導はただ保身に走っただけであった。

 

王導は、

東晋の初代皇帝司馬睿を江南に導いたという話は、フィクションである。

王導に関する話は、フィクションばかりである。

 

王導に並び称される謝安も、

多分に漏れず同様である。

 

謝安が一体何をしたのか。

 

王導、謝安が何もしなかったからこそ、

自身の権益を守りたい、貴族名族たちの支持を得るのである。

 

●王敦と王導について;

 

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 ●参考図書:

 

魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

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中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

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