北京は「青森」、
上海は「鹿児島」。
※下記にある距離とは、地図上の直線距離を指す。
●北京と上海:
中韓人民共和国の首都北京と、中国経済の中心地上海。
北京ー上海間の距離は、1070km。
距離は、青森市(青森駅)から山口市(山口駅)が1100km。
青森からの主要都市間距離で言うとこれが最も近いか。
東京皇居から見ると、五島列島の福江空港までが、1059km。
緯度は、
北京は日本で言うと、
青森市、
上海は鹿児島市。
⇒
現代でも、北京と上海では全く別物とよく言われる。
五胡十六国時代から南北朝にかけては、
長江を境に、
南北に全く異なる国があったといっても過言ではなかった。
気候、風土が異なるというが、
その差は緯度で言うと、青森と鹿児島ほどの差であった。
雪が頻繁に降る青森と、
温暖でヤシの木が育つ鹿児島。
北京は乾燥しているので、雪はあまり降らないが、
このぐらい差がある。
上海は、湿気も暑さも鹿児島よりも酷い。
元々が湿地帯だからであろう。
●洛陽と曲阜:
春秋戦国時代の周の都洛陽(洛邑)と、
周公旦の末裔が封じられた魯の都、曲阜。
洛陽から曲阜は、411km。(洛陽白馬寺から曲阜孔廟。)
これは東京から大阪の距離とほぼ同じ。
(直線距離が402km。
東京皇居から大阪・梅田。
洛陽、曲阜の緯度は大体名古屋と同じ。
→春秋時代は、この両都市間を中華文明の中心とした。
ここを争奪するために、この地域外の、晋・楚・斉が争う。
洛陽と曲阜の間が中華の中心地である。
ここは東京から大阪までのエリアとほぼ同じであり、
案外と広い。
この中華の中心地を確保すると、
東西南北の交易を牛耳ることができる。
黄河の渡河地点を確保できるからである。
このエリアの東西、
東は洛陽が周の直轄地、
西は曲阜が周公旦の末裔が魯という国として領地としている。
周において、
洛陽を副都、摂政周公旦の息子を魯の曲阜に封じたのは、
中華の東端、西端を押さえるためである。
黄河の渡河地点を押さえることが中華王朝としての条件であった。
●西安と北京:
前漢、隋唐の都、長安(現在は西安)
西安から北京は、908km。
西安の緯度は広島市とほぼ同じ。
北京は上記の通り青森である。
距離は、福岡から東京が880km。
(東京都庁から博多駅。)
新幹線で4時間である。
⇒西安、つまり長安と北京。
広大な中国大陸の地図上で、両都市を見ると、
恐ろしく遠いイメージがある。
対して日本の地図を見ると、
海に四方を囲まれているからか、
どの都市もとても近い印象がある。
しかし、照らし合わせてみると上記の通りだ。
西安と北京は、東京から福岡の距離しかない。
遠いと言えば遠い。
しかし、なんとかなる距離である。
●西安と洛陽:
西安から洛陽は337km。(唐皇宮跡から洛陽白馬寺まで。)
東京皇居から京都御所まで370km。
西安の緯度は広島市とほぼ同じ。
洛陽は大体名古屋と同じ。
名古屋と東京も緯度はそこまで変わらないから、
大雑把ではあるが同じといっていいだろう。
→西安、長安、咸陽。
呼び名は変わるが、頻繁に歴史上に登場する西安。
ここから洛陽を攻めるシーンは、
特に戦国時代に多い。
この距離感はどの程度か。
東京と京都である。
鎌倉時代、室町時代は、
頻繁に関東と京で争い合った。
わかりやすい事例は承久の乱だ。
なるほど、この程度の距離感であれば、
戦いあうのも納得である。
戦国時代の秦が洛邑に攻め入るのは、
これと同じ距離感なのである。
東京を中心とした関東と、
京都を中心とした上方、畿内で大きな勢力が出来上がれば、
ぶつかり合うのは必然であろう。
そして、それなりの文化差があるのも
我々日本人の感覚としてわかるようになってくる。
●北京と洛陽:
北京から洛陽は670km。
(天安門から白馬寺)東京・皇居から広島駅までが678km。
⇒
北京は青森と同じ緯度である。
寒冷地である。奥州の奥地であるから、
馬も育ちそうだ。
一方、
洛陽は名古屋、東京と同じ緯度である。
温暖湿潤で、色々な活動もしやすい。
文化を涵養するのにとてもいい環境だ。
●武漢と南京:
武漢駅から南京・玄武湖は、446km。
東京皇居から姫路城が469km。
⇒
武漢と南京。
東晋においては、
よく出てくる構図である。
武漢は、王敦の乱の王敦が本拠を置いていた。
その後庾亮もその周辺に本拠を置く。
桓温や桓沖は、その西の江陵に本拠を置く。
南京は、東晋の帝都建康のことである。
この両都市間で争いは良く起きる。
王敦は建康に攻め込む。
桓玄も建康に攻め込んだ。
その距離は東京から姫路である。
しかし実際にこの両都市間を移動するのは、
水軍がメインであり、かなり早いスピードで移動できた。
●成都と荊州(江陵)
成都天府広場から荊州(江陵)は、780
km。東京皇居から山口・山口駅が773km。
→ここの距離は意外と遠い。
プラスして100km行けば、
西安ー北京間の距離と同じである。
桓温はこの距離を踏破して電撃戦を実行。
成漢を滅ぼしたのである。
●成都と漢中:
成都天府広場から漢中・定軍山武侯墓(諸葛亮の墓)は367km。
東京皇居から京都御所まで370km。
なので、
西安から洛陽の337km(唐皇宮跡から洛陽白馬寺まで。)
に近しい距離。
⇒
蜀漢の諸葛亮は、
帝都成都から離れて、東京・京都間ほど離れた場所にいた。
自立を勝手にされても喰いとめるには難がある距離だ。
諸葛亮が劉禅の厚い信頼を勝ち得ていたこと、
一方で、信頼の維持に蒋琬を成都に置いていたことの意味が
わかる。
●絳と洛陽
絳(現在の翼城県。春秋時代晋の都)から洛陽は139km。
ただしこれは地形上ぐるっと回らないと行けないので、実際の距離感とは
大きく差があると思った方がいい。
東京皇居から静岡・駿府城が147km。
→
江戸にいる秀忠が急な要件の時に
駿府の家康に連絡を取れるほどに近い距離である。
これは本当に近い。
新幹線で行けば1時間である。
晋が本拠を置いた絳から洛邑は本当に近かった。
現代の競馬用のサラブレットは時速60〜70km。
しかし、いにしえの日本は蒙古馬で、個体が小さく、脚も短い。
その分持久力があるのだが、速度は落ちる。
普通の体格の人を乗せるとさらに速度は落ちるので、
一説には時速15kmと言われている。
駅伝制を整備すれば、
150㎞は計算上は10時間で情報伝達が可能となる距離である。
徒歩でひたすら歩けば、30時間。
●洛陽と荊州:
洛陽白馬寺から荊州(江陵、つまり郢)は487km。
東京皇居から姫路城が469km。
武漢駅から南京・玄武湖は、446kmとも近しい。
⇒
洛陽と荊州。
春秋時代、度々戦火を交えた、
晋と楚。
晋は洛陽周辺を勢力圏としていた。
荊州は楚の本拠地である。
度々両陣営は戦うが、
その距離は東京・姫路間であった。
そうなると、
度々大坂の陣を戦っているのと同じなので、
途端に身近になる。
●韓国と北朝鮮:
余談であるが、
緯度は、
ソウルは新潟、
平壌は盛岡。
三十八度線は仙台の東西の線。
韓国領土の上下の幅は
仙台から館山の間。
北朝鮮領土の上下の幅は、
札幌から仙台の幅。
朝鮮半島の情勢は、
南は房総半島から北は青森のある下北半島までの間で
動いている。
地図はそのエリアをミクロで見ると、
過大に感じてしまう。
等間隔で調べてみると、
案外と近い。
人間の感覚は意外と同じだ。
洛陽と西安の距離は、東京と京都の距離で、
であれば、それぞれ自立もするし、
強い方が弱い方を呑み込もうとするのも道理だなと感じる。