桓玄について。世に出るまでについて述べたい。
彼の世に出るまでは4歳から21歳までである。
長い。
369年生まれ、35歳で404年に死去する。
桓温の末子である。
母は家妓、つまり妾さんである。
なので本来は庶子であった。
にもかかわらず、
桓玄は父桓温の後継者になった。
桓温は373年に死ぬ。
桓玄は4歳。
目立ち過ぎた桓温は自身の死後を案じて、
大胆な計画を実行に移す。
4歳の童子を後継者に据えて、
周囲の攻撃をかわそうとしたのだ。
●4歳の幼児、「楚公」となる。
桓温が373年に世を去る時に4歳。
父のことは覚えていなかったであろうが、
父に後継者に指名され、南郡公の爵位を継ぐ。
南郡とは、
そもそも時は遡り、戦国時代、秦の白起が、
楚の都、郢を攻略、
そこに郡を置く。
その名前を南郡とした。
この郢、のちに江陵と呼ばれる都市を、郡治、つまり
郡の首府とした。
こうした歴史のため、
南郡公とは、実際には「楚公」と同じである。
桓温の権威、推して知るべしである。
4歳の幼児が、このインパクトの強い、
南郡公=「楚公」という爵位を継いだ。
●桓玄の後見人桓沖が譙国桓氏を守り抜く。
東晋を約30年率いた桓温の死の影響は大きかった。
桓温と同等の勢力を保つ、後継者は見当たらず、
後継者に4歳の桓玄を指名。
その後見人として、桓温が全幅の信頼を置く、
末弟の桓沖に据える。
桓沖は政治家ではなかったが、
堅実な武人であった。
桓温の期待に見事応えて、
桓温の本来の本拠地、荊州へ
桓玄と伴って撤退する。
この桓沖は384年に死去する。
淝水の戦いの翌年である。
淝水の戦いは戦略的には、
桓沖が荊州を固守したから勝利した。
時に桓玄は15歳。
貴族階級の元服は、
20歳なので、まだ早いが、十分に後継者として立つことはできる。
桓温以来の一門が盛り立てることで、
事実上384年から桓玄が譙国桓氏を率いる。
●21歳にして桓玄、世に出る。貴族扱いに不満。
桓玄は391年に出仕。
太子洗馬となる。22歳のことである。
時は、悪名高い司馬道子の執政期。
だが、これは桓玄にとってはマイナスではなかった。
そもそも、
桓玄の父桓温は、
東晋皇帝明帝の婿であり、
外戚であった庾氏三兄弟の義弟であった。
その関係から、
桓温は皇帝および宗族に近く、
特に司馬昱とは長らく協調関係にあった。
その司馬昱の末子が司馬道子であり、
桓温の末子が桓玄であった。
両勢力は別勢力ではあるものの、
両勢力はそうした経緯があるので、密接な関係があった。
桓玄にとって、司馬道子が専権を振るうこと自体は
マイナスではなかった。
むしろ司馬道子サイドとしては、
桓玄を自勢力に取り込みたいぐらいの気持ちであったはずだ。
桓玄の方はというと、
才気煥発、明朗快活な性格で、
自身の才能を誇り、意欲も高かった。
なので、司馬道子の威光を嵩に着て,
大器晩成を期すればよかったのだが、
この状況に不満を持った。
司馬道子を始め、建康政府のやり方に不満を持っていた。
太子洗馬という官職は、
皇太子の補佐官である。
五品官で、当然桓温の後継者桓温は二品扱いなので、
初任官としては適切なものである。
若い桓玄に対して、建康政府としては、
次の皇帝となる皇太子の補佐をしてほしい、
つまり次代になったら、執権を期待すると言っているのに等しい。
しかし桓玄は反発したのであった。
●自らの才能を抑えきれない桓玄
桓玄は南郡公である。
南郡の領主で、爵位は公爵ということである。
官位は太子洗馬。
確かに、大きく差があるといえば当然あるわけだが、
人臣最高ランクの桓玄の初任官としては妥当な処遇であった。
いや、むしろ、時の皇帝孝武帝や司馬道子は好意的に扱ったと言っていい。
次世代の執権を任せるというに等しい処遇は、
皇帝や宗族からの、桓玄に対するラブコールでもあった。
しかし、桓玄には叔父桓沖のような、
慎重さはなかった。
●桓玄、23歳にして東晋朝廷に口を出す。
時は司馬道子専権の時代。
しかし、そうことは単純ではなく、
司馬道子の専横に対して、
時の皇帝で同母兄の孝武帝は不満を持っていた。
皇后の兄で外戚の王恭に相談。
王恭は皇帝で義弟の望みを叶えるべく動く。
王恭は太原王氏である。
太原王氏は家風なのか、
行動を伴う、
エッジの立った人物が多いように感じる。
例えば、
王沈は西晋建国の元勲の一人である。
その私生児、
西晋末の王浚は、八王の乱のキーパーソンとして、
名族にはない動きを取った。
一時は河北に覇を唱え、皇帝への野望すら持った。
他にも無頼の徒のような人物がいるのが太原王氏である。
しかし、ひとつ筋が通っているのは、
太原王氏はみな、実働を伴うということだ。
これが他の貴族名族たちと異なる。
そのためのちに王恭は乱を起こす。
さらにそうしたこの一族が煙たかったのか、
のちに劉裕に圧迫され、華北へ逃亡する。
このために隋唐に至るまで、
太原王氏は生き残り、
7姓10族という名族の一つとして生き残る。
王恭の話に戻ると、
皇帝権強化のために、荊州を抑えようとする。
王恭は荊州刺史として、
赴任しようとする。
これは事実上、西府軍を掌握しようとするものである。
しかし、
ここは桓温以来の譙国桓氏の本拠地。
当主桓玄は王恭を嫌がった。
王恭与しがたしと判断し、
孝武帝に訴えかける。
代わりに、
殷仲堪を赴任させる。
これは392年のことである。
桓玄としては、殷仲堪の方が、まだ良かったということになる。
王恭は貴族名族でありながら、
ひとかどの人物であることがわかる。
そして、桓玄は若干23歳でありながら、
既に朝廷にネゴシエーションができるほどに、
力を持っていた。
このふてぶてしさは、
桓玄自身が、東晋の英雄桓温の息子、七光り、ボンボンでは
終わらないという宣言でもあった。
●参考図書;