さて、東晋は、前記事の通り、
下記8名の人物で東晋の歴史を語れる。
王導
王敦
庾氏三兄弟(代表は長兄庾亮)
桓温
謝安
司馬道子
桓玄
劉裕
この中でポジティブな描かれ方をしている人物を◯、
ネガティブな描かれ方をしている人物を⚫️、
ニュートラル、もしくは長短ある人物を△、
とするとこうなる。
◯王導
⚫️王敦
△庾氏三兄弟(代表は長兄庾亮)
⚫️桓温
◯謝安
⚫️司馬道子
⚫️桓玄
△劉裕
これに関しては異論はないと思う。
王導が東晋を作る。
王敦が反乱を起こすが鎮圧される。
庾亮が王導とともに国を盛り立てる。
桓温が専横する。北伐に失敗する。
謝安が苻堅の攻撃を跳ね返す。救国の英雄。
司馬道子が専権を振るう。腐敗堕落する。
桓玄が簒奪する。
劉裕が東晋を復活させる。そして禅譲を受ける。
これが基本的な流れだ。
●王導の嘘。
さてここで問題なのが、
◯の付いている王導と謝安だ。
ポジティブに描かれているわけだ。
当然ポジティブな説明があって然るべしだ。
太公望、管仲、楽毅、張良、蕭何、諸葛亮ぐらいのエピソードが欲しいところだ。
しかし、ない。
ポジティブな事績がないのである。
王導は王敦の乱が鎮圧された後に、
司徒となる。
といっても司徒になったからといって何かしたわけでもない。
王敦の乱を鎮圧するにあたって、何かしたわけでもない。
王敦の乱は、東晋二代皇帝明帝が先頭に立って鎮圧したのであった。
明帝を補佐したのは、義理の弟、庾氏三兄弟である。
では王導はなぜ王敦の乱ののちに出世したのか。
王敦は瑯琊王氏である。
王導も瑯琊王氏である。
となれば、王導は瑯琊王氏として本来は王敦につくべきであった。
が、つかなかったから、出世したのである。
身内を売ったのである。
だから、当時政権を握ったのは
庾亮だったから、
この後庾亮中心の話しか出てこない。
蘇峻の乱は、庾亮の失策ではあったが、
これは皇帝権強化の反発からであった。
明帝は王敦の乱終息後すぐに死に、
明帝の子で、庾亮の甥、幼帝成帝を支えるためであった。
貴族名族たちが皇帝に非協力的で保身を図るから、
先に北来の軍閥から手をつけようとして失敗したのが、
蘇峻の乱である。
王導は庾亮よりも先に死ぬので、
大した実績もなかった。
王導は339年に死に、
庾亮は341年に死ぬ。
だから瑯琊王氏、瑯琊王氏といっても表舞台に出てこないのは、
大土地を所有する貴族ではあるものの、
王導が大した実績を残せなかったので、力がなかったのである。
●謝安の嘘。
また謝安であるがこちらも実績に乏しい。
淝水の戦いで大勝、戦勝の報告を囲碁を打っている最中に聞いた。
泰然自若として東晋を指揮していたという印象を持ってしまう。
しかし、
前秦苻堅が荊州を押さえないまま、
単独ルートで寿春に攻め入った時点で、
本来はほぼ勝利は確実であった。
このルートを乗り越えられたものは古来よりない。
ここを堅守すればよかった。
むしろ戦略上、この寿春単独ルートに誘い込んだ方が勝ちである。
それは桓温の末弟桓沖であった。
そして、
この寿春を堅守したのは謝玄であった。
謝安はでは一体何をしたのだろうか。
正直なところ、今でもよくわからない。
謝安が何か支持を受けるに値する実績があったのであれば、
淝水の勝利の後、すぐに司馬道子に放逐されても、
謝安を擁護するとして誰かが立ち上がったのではないか。
ということで、
上記人物リストから、
王導、謝安をのぞいた、
王敦
庾氏三兄弟(代表は長兄庾亮)
桓温
司馬道子
桓玄
劉裕
この六人が東晋をリードしたのである。