歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

王敦の「嘘」 東晋史の真実

一方、

東晋において、悪く描かれるのは、

王敦、桓温、司馬道子、桓玄だ。

 

しかし彼ら視点で、

調べると、彼らにはいろいろな言い分がある。

 

 

●東晋を実際に作ったのは王敦
 

王敦は事実上東晋の基礎を作っている。

司馬睿は旗頭に過ぎない。

王導は王敦よりも格が下である。

 

同じ瑯琊王氏だが、

王敦は西晋皇帝司馬炎の婿。

 

そして、

揚州刺史としての江南出向。

 

かたや王導は、

東海王司馬越の副官であったが、司馬睿の江南行きに附属させられただけである。

 

全く格が違う。

 

そして王敦はただのボンボンではない。

 

王敦は江南において、拠点を築き、

そして長江を遡り、荊州を自勢力に組み込むことに成功した。

 

ただの貴族ではない。

貴族は武を卑しむが、

王敦は司馬炎の婿という最上位層にありながら、実行力を持っていた。

 

この東晋期においては、稀有な存在である。

 

にもかかわらず、皇帝司馬睿が王敦の力を削ごうとしたのだから、

反乱を起こそうとするのもやむを得ない部分がある。

 

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●王敦の建康での代理人が王導

 

荊州にいた王敦であるが、

もちろん司馬睿を輔佐する、一方で司馬睿の行動を抑制する役割の人間を置いていた。

それが、同族の王導であった。

上記のように、王敦と対立する事態に陥ったのだから、

王導は機能しなかったことになる。皇帝司馬睿も後に憤死するのだから、

王導は、皇帝へも、瑯琊王氏にも貢献できなかったこととなる。

 

このいわゆる帝都に置く代官というのは非常に重要だ。

 

後年、劉裕が関中に北伐に行っていた時に、

腹心の劉穆之を東晋朝廷に残していたが、これは建康で勝手なことをされると困るので、

自身の代官として置いてあるものである。皇帝は当然であるが独断で決裁ができる。

これをコントロールするには、側にいわゆる目付を置く必要があるのだ。

 

この劉穆之が急死すると劉裕はすぐに建康に撤退するが、

自身の代官が帝都にいないと、それほどまでに危険なのである。

 

諸葛亮でさえ、帝都成都に自身の代官を置いていた。

これがのちの諸葛亮の後継者蒋琬である。

 

蒋琬は、漢中にいる諸葛亮と、皇帝劉禅との橋渡しをうまくこなし、

両者の信頼を勝ち得た。

 

しかし、王敦は代官に恵まれなかった。

王導は、劉穆之にも蒋琬にも及ばなかった。

 

王導は皇帝司馬睿を抑制できず、

王敦と対立、討伐しようとしたのだから、大失敗である。

 

にもかかわらず、現代において、

王導は賞賛され、王敦の評価は低い。

 

これでは王敦は浮かばれないだろう。

 

王敦は最後は、

その王導に裏切られて、その目的は果たせなかったのだから。

 

第二次王敦の乱において、

王導が皇帝(このときは司馬睿の子明帝)に裏切ったから、

王敦は失敗したのである。

 

そのため王敦のこの行動は、

「乱」と呼ばれるようになった。

 

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●参考図書;

 

魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

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中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

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魏晋南北朝通史〈内編〉 (東洋文庫)

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