歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

衰退する国家と、孫恩の乱。

 

 

●衰退していく国家

 

衰退していく国家とはとにかく何をやってもうまくいかないものだ。

これまで成長してきた部分を食いつぶして、

何とか体面を保っていくほかない。

 

しかしそれはただの庶民に最も早く影響が起き、

厳しい環境になる。

経済環境などなどである。

 

今まで成長してきたインフラがある。

それをもとに社会は回っている。

しかしそれが古くなる、陳腐化する。

そうなると、成長が鈍化、その後停滞、そして衰退がはじまる。

さっさと、新しいやり方に変えればいいと、当事者ではないと考えられる。

そうはいっても今まであったことへの執着がなかなか捨てられない。

 

過去の成功体験にこだわって、

これまでのやり方に縛られてしまう。

それは停滞、衰退する道なのかもしれないとわかっていても。

過去の栄光というのはそれだけ偉大なのである。

 

この執着が行きつくところまで行く着くと、

国家が苦しくなる。

庶民も限界に達する。

 

そうすると、双依存の関係にある両者が共倒れする。

 

国家が苦しいから庶民が苦しくなったのか。

それとも、庶民が苦しくなったから国家が苦しくなったのか。

 

中華の歴史において、

国家終焉間際には農民、つまり庶民主体の反乱が起きる。

紅巾の乱、紅巾の乱、孫恩の乱、黄巣の乱など。

明の朱元璋などは、白蓮教徒であり、この庶民反乱の一構成員として、

皇帝まで成り上がった人物である。

 

この結論だけ見れば、庶民が苦しいからとなるが、

本当は国家が苦しい、その影響が庶民に及ぶことから停滞が始まるわけなので、

本当は国家が始まりなのだと私は思う。

 

●孫恩の乱は「起義」

 

孫恩の乱は現代中国では、

「孫恩起義」と呼ぶ。

 

清末の武昌起義と同じ言葉を使う。

 

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引用元:「地図上的中国史 : 図説中国歴史(全22セット)」中国地図出版社

 

これは、現代中国が民衆が作った国家であるためだ。

孫恩の乱のような民衆、庶民主体の行為は、

現代中国の視点では、国家に対する反逆を意味する「反乱」ではなく、

「義を起こす」ということになる。

 

皇帝視点ではこれは反乱に他ならない。

 

●孫恩の乱の経緯~孫恩が身投げするまで~

 

孫恩の乱は、後に盧循に引き継がれて、

399年から411年までの12年間続く。

 

きっかけは、司馬元顕が江南8郡において、

父祖代々奴隷だったのを、

自由民となっていた者を兵士として徴発したことによる。

 

これは司馬元顕が、事実上の軍閥である

北府軍の劉牢之、西府軍の桓玄に対して相対的に力が弱いための

対抗措置であった。

 

とはいえ、民衆にとってはそんなことは知らない。

このような勝手なことをされてはたまったものではないということである。

 

これに、民が激高し反乱に至る。

孫恩が現在の舟山群島と思われる場所に、

数百人を集める。乱を起こす。(現代中国の言葉では、義を起こす。)

 

舟山群島は、上海、杭州、寧波に囲まれる杭州湾の沖にある。

杭州の真東、上海の南東、寧波の北東である。

史書上は、「海島」という記述になっている、

 

399年、

孫恩たちは、

会稽郡の太守を殺す。殺された太守は、王羲之の次子の王凝之である。

これに8郡の民衆が呼応。

郡太守の貴族などが殺される。

 

400年には、

討伐に来た謝安の子、謝琰を返り討ちにする。

謝琰はこの戦いで命を落とす。

 

しかし、この後北府軍を率いた劉牢之に孫恩は

敗れると、「海島」に撤退する。

 

その後、孫恩は再度中国大陸に上陸。

 

401年には、呉郡太守の袁山松も撃破し、殺す。

 

王凝之は瑯琊王氏、謝琰は陳郡謝氏、袁山松は陳郡袁氏で、

東晋を代表する貴族名族である。

後に、僑姓と呼ばれる氏族出身である。

これら貴族名族たちを孫恩たち民衆はやっつけたという構図になる。

 

しかし、孫恩は臨海という城を攻撃をするも失敗、

この後孫恩は海に身を投げ自殺する。

 

反乱は妹の夫、盧循が引き継ぐことになる。

 

 

●孫恩集団の宗教性。

 

孫恩の叔父は孫泰。

孫泰は五斗米道(天師道)教団の指導者。

 

孫秀が先祖である。

 

孫秀は司馬倫の腹心。

 

孫秀は五斗米道の指導者で

それゆえ司馬倫と結びついた。

 

孫秀は司馬倫を利用して、

西晋の実権を握る。

 

司馬倫は孫秀のおかげで皇帝にまでなる。

 

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間接的にだが、桓玄が皇帝になる一つの要因に、

孫秀の子孫の孫恩が絡んでいることは興味深い。

 

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五斗米道は三国志に登場する張魯で一躍有名になる。

漢中で勢力を持つも、曹操の討伐を受け滅びる。

これがのちの道教の元である。

 

どのような性格の集団かというと下記参照してほしい。

「中国史〈2〉―三国~唐 (世界歴史大系)  山川出版社」p95引用

中国史〈2〉―三国~唐 (世界歴史大系)

 ------------

「反乱に参加した女性が足手まといの用事を水中へ投げて、

「汝は先に仙堂へ登れ、我はついであとに汝に就かん」と

「賀」したという」」

 ------------

 

孫恩は最後に海に身投げしたが、

先に仙堂に行ったということになる。

 

孫泰がこのような怪しげな五斗米道の、秘術を用いて、

東晋皇帝孝武帝や司馬元顕に取り入る。

 

司馬倫も孝武帝も司馬元顕もこの五斗米道、天師道、後の道教に

惹かれるのだから、何か大きな理由があるのだろう。

 

孫泰は力を得る中で、反乱を企む。

これを見抜かれて、孫泰は処刑されるも、

孫泰を慕って集まった民衆100名余りを指導して、

孫泰の甥孫恩が反乱に踏み切るのである。

 

司馬元顕の民衆徴発と関りがあるのか、難しいところだが、

孫恩の乱が発生するのには複合的な要因があるとは言えるだろう。

 

 

●孫恩死後の反乱は妹婿盧循が継ぐ。

 

 

孫恩の死後、

乱は孫恩の妹婿盧循が後を継ぐ。

 

盧循は各地を彷徨いながら、

東晋各地で反乱を続ける。

その範囲は、会稽や建康に留まらず、

荊州境界線までに至り、その後南下。

 

最後は、

盧循は404年に広州を落とす。

のち6年間支配する。

 

ちょうど桓玄が司馬元顕による孫恩・盧循の乱鎮圧要請に乗じて、

建康を制圧し、皇位を簒奪したころである。

 

桓玄により東晋が滅びるも、その後劉裕の手に寄る復国がある中、

盧循の広東は落ち着く。

 

●劉裕により孫恩の妹婿盧循は鎮圧される。

 

動きが出るのは、

劉裕が北伐を開始するタイミングである。

 

410年、

劉裕が青州の南燕を攻める隙を見て、盧循は北進。

 

劉裕北伐によりからっぽになった建康に迫る。

だが、劉裕が急いで取って返す。

劉裕に盧循は破れる。

 

411年広州は陥落。

 

盧循は交州(ベトナム北部周辺)に逃れてそこで死ぬ。

 

これで孫恩・盧循の乱は終焉。

劉裕は名声を得、禅譲への道を歩む。

 

●孫恩「起義」の成果。

 

成果は三つである。

 

謝安以降力を持っていた貴族名族たちの力を削ぐことになった。

瑯琊王氏、陳郡謝氏、陳郡袁氏などが被害を受ける。

 

宗族の司馬元顕は孫恩の乱を鎮圧できないことで、

桓玄を建康に呼び込み、

裏切られる。

桓玄は司馬元顕と元顕の父司馬道子を殺害。

これで東晋の宗族勢力は壊滅的となる。

 

そして、桓玄は東晋皇帝を廃し、

自身が皇帝になることで、

東晋が滅亡。

後に劉裕が復興させるも、東晋皇帝は何の存在感もなくなった。

 

力の弱まった貴族名族たちは、

軍人劉裕と手を組み、力を再度持つ。

 

皇帝および宗族を排除、

最後は劉裕が皇帝になるという結末が結論である。

 

 

 

●参考図書:

 

魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

 
中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

 
魏晋南北朝通史〈内編〉 (東洋文庫)

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五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

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