歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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慕容垂、運命の395年参合陂の戦い

 慕容垂にとっては自身の運命を決めてしまった参合陂の戦い。

一方、北魏にとっては、華北の覇者となるチャンスを掴んだ、

いわば天下分け目の戦いであった。

天下と言っても、華北だけのことではあるが、

江南を異民族が支配したことはこの時点ではなかったので、

彼らの天下と言ってもいいだろう。

 

 

●北魏=西燕連合を絶対に許せない慕容垂。

 

391年に、後燕と北魏は断交。

慕容垂が拓跋珪を虚仮にしたというが、

これは疑わしいとだけ述べておく。

 

北魏は、後燕慕容垂の不倶戴天の敵、西燕に接近。

 

慕容垂は西燕に攻勢を仕掛け、394年に滅亡させる。

 

西燕と盟友であった北魏は、後燕からすれば西燕の残党である。

 

慕容垂はこれを叩きに行く。

 

慕容垂からすれば、自身の正統性にケチを付ける勢力の最後が、

北魏なのである。

 

北魏の征討を慕容垂は企てるも、

病に罹る。

 

●皮肉にもあれほど憎んだ兄慕容儁の晩年と同じ状況に陥る慕容垂。

 

一旦振り上げた拳は使わないと大国のメンツにかかわる。

 

慕容垂は北魏遠征を準備する中で病に罹る。

 

これは実は皮肉にも慕容垂が徹底的に嫌った、

兄慕容儁と同じシチュエーションに陥っていた。

 

前燕慕容儁も東晋に大攻勢を仕掛けようと鄴に軍勢を集めた最中、

発生した疫病で死ぬ。

 

慕容垂はここでは死なないが、

折角あつめた10万の軍勢を指揮することができなくなる。

 

しかし、兵を集めたからには、何もせずに解散させることはできない。

兵を集めるということは戦勝前提の褒賞がつきものだからである。

 

慕容垂は、

皇太子慕容宝に兵を預け、北魏討伐を命じる。

 

●当時の北魏は、古の遊牧国家匈奴の小規模版。

 

北魏は拓跋珪が復興させた国である。

復興させた当初は代という名前だったのをすぐに北魏へ国号を変えている。

代は、

拓跋珪の祖父、拓跋什翼健の時に

前秦の苻堅に滅ぼされている。

 

苻堅が385年に姚萇に殺されたのを受けて、

拓跋珪が翌386年に代を復興させている。

 

代とは現在の大同市周辺を指す。

 

・代は北方異民族にとっての中華攻略最前線

 

ここは春秋時代末期の趙襄子が奇襲により切り取った地域であり、

前漢高祖劉邦が匈奴冒頓単于に包囲された白登山がある場所でもあり、

劉邦の庶子、前漢文帝が王として封じられていたのが代である。

また、後世、モンゴルを統一したチンギスハーンが、

中華に侵入しようと大挙して攻城戦を行ったのがこの大同である。

 

中華辺境の地であるが、

ここ代は北方異民族の主要侵入ルートであった。

 

異民族からすれば中華へ侵入する最前線が代と言える。

 

ここ、代は大同市近辺(平城)にあるのが、参合陂である。

 

 北魏の本拠地はさらに北である。

大同の北にあるのがウランチャブ市、

そこからさらに西に行くとフフホト(北魏の都・盛楽)である。

 

これは匈奴は冒頓単于が本拠地としたエリアで、

北魏という中華国家らしい名前を名乗っているものの、

実態は古の匈奴と変わらない国家であった。

 

こうした背景を持つ北魏。

騎兵主体の強さはある。しかし、中華の財力、文明力がない。

 漢人、異民族問わず、全てを蹴散らしてきた名将慕容垂からすれば、

一蹴できる相手であった。

 

●運命の参合陂

 

しかしながら、病に倒れ出征できない慕容垂。

兵を解散させることはできないので、

皇太子慕容宝を総大将として、

北魏に出兵する。

 

●冬の到来が慕容宝の後燕軍を撤退させる。

 

河北の覇者後燕の大軍勢である。

 

遊牧エリアで騎馬を多数保有する北魏だが、

多勢に無勢、拓跋珪は本拠の盛楽(今のフフホト)を放棄して、

西に黄河を渡って守りを固める。

 

後燕の本拠は中山であるが、

参合陂のある大同どころではなく、

そのはるか先の盛楽まで遠征をしていたことになる。

 

参合陂の戦いというと局地戦の印象があるが、

広域にわたる戦闘であった。

 

北魏は、諜報戦も多々行う。

 

まずは、本拠の慕容垂死去の誤報を流し、軍勢に揺さぶりをかける。

また皇太子慕容宝の、庶兄慕容鱗を調略し、

軍勢の中でクーデターを行わせる。

鮮卑慕容部らしい、身内同士の争いがここでも起きる。

 

しかしそれでも後燕勢は戦線を維持するも、

決定打に欠けるうちに、冬が来る。

 

遠征の後燕軍は、

冬の到来で退路を断たれることを恐れ、撤退。

 

・気が狂ったかのごとく大追撃戦を行う拓跋珪

 

これを見た拓跋珪は、追撃戦を開始。

 

盛楽、今のフフホトから、大同の先までの追撃戦である。

ざっと200km、東京から福島市までを延々追撃。

 

慕容宝の後燕軍を散々追って、

はるか遠くの参合陂で捕捉する。

 

参合陂の戦いとなり拓跋珪が勝利する。

 

散会状態で、退却の疲れもある後燕軍。

対して、遊牧民得意の追撃戦で勢いに乗る北魏軍。

 

騎兵率の高い軍勢で敵を自領深く誘い込み、

奇襲を仕掛け、敵を攪乱した後、散々ぱら追撃する。

これは遊牧民の典型的な戦い方である。

 

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395年11月、

現在の大同近郊の参合陂で後燕を大敗させる。

 

一説には、後燕軍の死傷率は8割とも言われ、

これは前秦苻堅が大敗した淝水の戦いと同じである。

 

慕容垂の後燕は淝水の戦いと同程度の大敗を喫したのであった。

 

●参合陂の敗戦は、苻堅の淝水の戦いの大敗と同レベル。

 

この大敗を受け、慕容垂は病を押して、

戦陣に立つことになる。

 

参合陂での大敗から4か月、

396年の4月に慕容垂は親征する。

 

拓跋珪を破り、平城(今の大同市)を落とす。

 

この後には、エピソードがある。

 

この戦いの帰路、慕容垂は参合陂に差し掛かり、

戦没者を弔うも、軍勢が戦没者を嘆き悲しみ、

それに恥じ入った慕容垂は病を篤くし、そこで陣没したというものだ。

 

だが、これはわかりやすいエピソードすぎてそのまま信じるに足らない。

 

北魏は、後の隋唐に連なる王朝で、

北魏視点の史観というものがある。

 

慕容垂はこの史観の中では悪役であるので、差し引いてみなくてはならない。

 

・参合陂の戦いの翌年に慕容垂が行った北魏攻撃は戦略的牽制。

 

後燕皇帝慕容垂は、

皇太子の参合陂の戦いによる大敗を受けて、

今後は慕容垂の方が北魏拓跋珪の脅威を感じざるを得なくなった。

 

文字通りの大敗であれば、

拓跋珪が勢いに乗って攻め込んでくる可能性が十分に在るのである。

 

そこを慕容垂は先手を打って、

北魏に攻め込んだ。

 

平城の陥落だけで撤退しているところを見ると、

これは防御のための攻撃と見るのが打倒である。

 

懲罰とかメンツの問題ではない。巻き返す意図でもない。

 

北魏の本拠盛楽で体制を回復し、すぐさま後燕本国に攻め込まれる前に、

軍勢を準備して、北魏の侵入ルートである平城を確保しておく。

 

慕容垂の非凡な軍事戦略を感じさせる。

 

桓温の第三次北伐を打ち破ったときもそうだが、

慕容垂のこの軍事に関する非凡さとその冷静さは

すごいものがある。

 

桓温の第三次北伐の時には、

桓温本隊と戦うことなく、後方を攻撃し、退却に追い込んだ。

 

慕容垂は、平城を確保したら。

北魏の本拠盛楽まで入り込むことなく、

撤退した。

 

慕容宝のときのような全面戦争とは異なり、

北魏を滅ぼす戦役ではなく、牽制するものであった。

 

しかし、この帰路、慕容垂は陣没する。

 

出兵というのは基本的に野宿である。

病を押して、親征した皇帝慕容垂は、

野営のハードさに身体を壊し、その寿命を縮めたのである。

 

とはいえ、慕容垂年齢70歳。

当時としては長寿であった。

 

慕容垂は寿命を減らしてまで自分の国を守ろうとしたのである。

 

・慕容垂死後の拓跋珪の猛反撃で一気に後燕を滅ぼす。

 

慕容垂の死を受けて、

北魏拓跋珪は後燕に攻勢を仕掛ける。

 

拓跋珪は、後燕を散々蹴散らし。

398年には華北を統一する。

 

慕容垂の死後、

たったの二年で、河北ばかりか、華北全域の支配者が代わったのである。

 

参合陂の戦いは、後燕にとってそれほどまでに大敗であり、

北魏にとってそこまでの大勝利であった。

 

●参考図書

 

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