歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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劉裕の北伐、土断、禅譲までの経緯。

東晋の命運にとどめを刺し、南北朝への時代の幕開けを行う劉裕。

 

 

王莽、曹操のような人物ストーリーがある展開ではなく、

どちらかというと司馬炎のように一つの歴史の一ページとして、

粛々とそしてスムーズに進んでいくという印象が強い。

 

後から見れば、

劉裕が、桓玄を打倒することでほぼ情勢が定まることとなる。

 

だが、実際には、

劉裕が大したバックグランドがないにもかかわらず、

政治的バランスを保ち、最終的に禅譲にこぎつけたことにすごさがある。

 

権力を持ち得ても、禅譲までスムーズにこぎつけられた人物は少ない。

 

●404年劉裕の全権掌握

 

 

403年10月に桓玄が皇位を簒奪。

404年2月に劉裕が主導して桓玄に対してクーデター。

404年5月に劉裕は蜀に逃げ込んだ桓玄を殺害。

 

東晋の前皇帝、安帝を復位させて、

東晋、劉裕の権限掌握。

 

安帝は重度の知的障害を持っていた。

皇帝としての実態どこか、ただそこにいるだけの存在であった。

 

●ここで桓温を模倣することができるのが劉裕の凄さ

 

東晋を臣下として最も国勢を高めたのは桓温である。

 

その桓温の七光りを受けて桓玄は立ったが、失敗した。

 

劉裕は桓玄を打倒するも、そうした微妙な輿論を感じとる。

桓温の再来を求める輿論と、貴族層の既得権益を守りたいという

この両方の意向を踏まえて、禅譲への階段を着実に昇る、

 

劉裕は非常に貧しい家の出で、一介の武人である。

政治的経験など皆無に等しい。ただの軍閥に終わる可能性すら高いのである。

 

あの桓温さえも、第三次北伐を東晋の総力を出させるために、

政治的ロビー活動を行ったが、これはなかなかうまくいかなかった。

 

しかし、劉裕は、

この政治的バランスの中、着実に自分のポジションを上げていく。

 

これが劉裕の凄さである。

 

●劉裕の第一次北伐、409年南燕討伐。

 

409年、山東の南燕攻撃。

南燕は後燕から分離した国である。

慕容垂の死後分裂した後燕。その中で慕容垂の弟慕容徳が山東に燕(南燕)を建てた。

鮮卑慕容部の残党政権である。

 

 

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この当時は、慕容超が皇帝である。

慕容超は慕容徳の甥である。

慕容徳は淝水の戦いの後、

慕容垂が苻堅から独立したため、苻堅に子供を全て殺されていた。

そのため甥が後を継いだのである。

 

山東しか押さえておらず劣勢であった南燕。

苻堅後もそのまま生母、正妃が長安にいて、当時は

後秦に匿われていたこともあり、慕容超は後秦に臣従する。

 

慕容超は東晋への侵攻の動きも見せる。

このため劉裕の最初のターゲットとなった。

 

翌410年に首都広固を落として滅ぼす。

 

●411年孫恩の乱の鎮圧完了。

 

取って返して、411年、孫恩の乱を引き継いでいた広州の盧循を撃破。乱を鎮圧する。

劉裕が山東を攻めている間隙を狙って、

盧循は建康に迫ってきたのを返り討ちにしたのである。

 

 

 

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●劉裕、412年政敵を排除完了。

 

412年、西府軍の掌握。ライバル劉毅を倒す。

 

劉裕は404年以来、諸葛長民及び司馬休之・文思父子といった

反対勢力を次々追い落とし、

最後に劉毅を打倒することで完全に権力掌握を達成した。

 

司馬休之・文思父子は司馬懿の六弟、司馬進(恵達)の末裔。

司馬進は司馬八達の一人。宗族であるが、東晋皇帝とはだいぶ遠い宗族である。

これの父子が滅びたことで、東晋を長らく左右してきた宗族勢力は、

その命運を終える。

 

 

●413年に蜀の確保。桓温の成漢討伐の大功績に並ぶ。

 

同年、蜀の譙縦を攻撃、413年には蜀を奪う。

譙縦は405年に桓玄の皇位簒奪の混乱に乗じて蜀を確保。

自立をした。後蜀とも言う。

 

その後劣勢を挽回するために407年、後秦に臣従。

 

劉裕は南燕討伐で、後秦と対立関係に入っていたので、

南燕の次のターゲットとされたのである。

 

●413年劉裕の土断。

 

並行して、

413年に劉裕は土断を実施。

義熙土断と呼ばれ、桓温の康戌土断と同様の規模を誇る。

桓温のキャリアにおいて、大規模な土断を実行できたことは、

権力者としての格を段違いにした。

禅譲を狙う。劉裕にとってこの事例は非常に重要であった。

 

とはいえ、劉裕の地盤、晋陵には手を付けず。

劉毅を打倒して、さらに反対派勢力を弾圧するための土断であった。

よく知られるエピソードは、

刁逵(ちょうき。刁協の孫。

刁協は東晋初代皇帝元帝司馬睿が王敦を討伐しようとしたときに助けた人物である。)

という大地主から土地を奪い、民に分配したということである。

しかしながら、刁逵は東晋朝廷から追放された家柄であり、

これはただのポピュリズムであり、そして政治的弾圧であった。

 

劉裕は土断を成功させ、対立勢力の壊滅を実現する。

 

 

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●416~417年劉裕第二次北伐、後秦討伐を成功させて桓温を超える。

 

416年からは北進して黄河へ到達、

 

西に進み、

洛陽の攻略、

そのまま関中へ侵攻。

 

長安を陥落させて、後秦を滅亡させる。

 

 

 

黄河以南の地の回復、

および洛陽と長安の回復を劉裕は成し遂げた。

桓温の軍功を超えたのである。

桓温は長安を包囲はするも、攻略はできなかった。

 

 

しかし長安にいた劉裕は、

建康で劉裕の代官を務めていた劉穆之が急死の報を受け、

帰還する。

腹心の劉穆之が不在であると、意思を表明できない皇帝の代行と称して、

何が起きるかわからないからである。

 

この417年というタイミングでは、一瞬ではあるものの、

東晋の最大版図を劉裕は築いた。

 

江南、荊州という東晋本土、

山東、蜀、そして洛陽から漢中にかけての旧後秦領。

本来のチャイナプロパーと呼ばれる中華本土として残るは、

平城を本拠にする北魏のみであった。

他に夏があるが、夏はオルドスを本拠。オルドスはチャイナプロパーとは呼べない。

  

418年には長安は早くも夏の赫連勃勃に奪われるが、

この時点で重要な劉裕の政治的課題は、

既に皇位禅譲であった。

 

 

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●劉裕、420年に禅譲の達成。

 

 

劉裕は禅譲への道を進む。

 

418年には東晋皇帝安帝を殺害。

弟を恭帝として擁立。

 

禅譲は、天命の移譲である。

意志あってのものである。たとえ建前であっても。

となると、知的障害のため意志が表明できない安帝ではまずい。

 

そのため、安帝を支えた聡明と言われる弟の司馬徳文を

皇帝に擁立する。

 

後漢末の、少帝と献帝の関係に少し似ている。

 

420年に劉裕は東晋皇帝恭帝から禅譲を受け、皇帝に即位。

宋王朝を開く。

 

恭帝は翌421年に劉裕により殺害される。

余命を全うできた後漢献帝と同じようには生きられなかったのである。

 

 

●参考図書:

 

歴史とは何か (第1巻) (岡田英弘著作集(全8巻))

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シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))

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